「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 伽藍松(がらんまつ) = 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)(宇治天皇)の陵墓の最有力候補地

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 真実の人徳天皇-香具山に登りて望國したまふ天皇」の資料「 宇治の京 村高完成版 」の17ページに「菟道稚郎子の陵墓の最有力候補地伽藍松(がらんまつ)」についての記述があります。              <以下、『宇治の京』より引用>

 『万葉集1795番歌』

『萬葉集』巻第九
 挽歌 一七九五番
 宇治若郎子宮所歌一首
 妹等許 今木乃嶺 
 茂立 嬬待木者
 古人見祁牟
 (いも)らがり 今木(いまき)の嶺に
 茂り立つ 嬬松(つままつ)の木は
 古人(ふるひと)見けむ

 宇治天皇の死に関わる挽歌が『万葉集 1795番』に残されている。

 (妹の所に今来た)今木(今来)の嶺に茂り立つ妻を待つという松の木は、故人も見たであろう。

 「妹らがり」は「今来」の枕詞。多くの注釈書は、「『今木』は所在地未詳。『古人』は、宇治若郎子(=菟道稚郎子)を指すのであろう。」とする。
 菟道稚郎子が「菟道の山の上に葬りまつられた」ときの挽歌であるなら、右の歌の詠み人は 皇后髪長媛 であろうか。
 この歌が、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ているのもたいそう興味深い。万葉集よりも古い歌なのである。

 「今木の嶺」は香春の地にもすぐには見出せないが、鏡山の地に、「伽羅松(がらんまつ)の伝承がある。
 『香春町史』から引用する。「鏡山村誌」によると、

 「伽羅松 という。村の西南道の上に古松あり。その周囲一丈五尺実に風雅な松なりとある。古きより、寺の跡(伽羅)ともいい御陵 ともいう。境内に幸神あり。」

と記されている。今のところ、最有力の候補地である。だが、ここに古墳が見当たらない。

 その時、菟道稚郎子の陵墓について、岩波大系本は頭注に次を引いている。
 続後紀、承和七年五月六日条の藤原吉野の奏言に

 昔宇治稚彦皇子者、我朝之賢明也。此皇子遺教、自使骨、後世効
とある。     

 つまり、散骨の風が菟道稚郎子に始まるとしてある。宇治天皇は崩御に際しても、人民を自らの陵墓造りには駆り出さなかったのであろうか。

「写真」
「写真」

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