「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 香春の神と天皇 (その1) より
(令和6年1月6日(土) 香春町郷土史会例会)
「清祠殿」の建物の後ろにある社に天照大神が祀られている。
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『古事記』の「天の石屋戸」の記述にあるように天香山の銅で、鏡を作っている。
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素戔鳥尊の本貫地1の神鏡製造所跡「清祠殿」
*.天の石屋戸、素戔鳥尊が天照大神に処刑された場所が、田川市夏吉にある 岩屋第一鍾乳洞
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福永晋三先生のタイトル『天香山事件』の資料「 天香具山争奪戦 」の中に「天の岩屋戸事変」、「素戔鳥尊異聞」の説明です。
天香山を基軸にして、「天の石屋戸」伝承を見直す時、「天神饒速日命=天照大御神」は、「天香山」に拠る「速須佐の男の命」の王権を奪取したことになる。
つまり天照と速須佐の男は兄弟ではなく、天香山の支配権を巡って死闘を展開した敵同士であったと思われる。
天神は勝利し、スサノヲは敗れた。だからこそ、スサノヲは軍事裁判の結果、戦犯として追放もしくは処刑されるのである。スサノヲは豊国を追われた。
素戔嗚尊異聞
『日本書紀』神代上 第七段(日本古典文学大系)から、天岩屋伝説(本文と一書群)における小異や注を引いてみよう。
天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。(一書第一)
日矛を作らせているから、この伝承は銅矛文化圏のものである。したがって、天香山は銅鐸文化圏にはなかった。
素戔嗚尊
日本書紀は一貫してこの表記である。同じ表記のスサノヲが、昭和九年発行の『鞍手郡誌』の各「村社」の祭神として鎮座する。
中でも、「剣神社」や「八剣神社」に多く見られる。古遠賀湾沿岸の神である。(上川敏美氏が早くに指摘。)
天照大神(本文)
日神 日神尊(一書群)
古事記の天照大御神と表記が違ったり、日神の用例が目立つ。
然して後に、諸の神罪過を素戔嗚尊に帰して科するに千座置戸を以てして、遂に促め徴す。髪を抜きて、其の罪を贖はしむるに至る。
亦曰く、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已にして竟に逐降ひき。(本文)
《手足の爪は、切った後もその人の体の一部分であり、その爪を焼くとか刻むとかして危害を加えれば、爪の元の所有者を死に至らせ、または病に陥らせると考えられていた。》と頭注にある。
千座置戸を以てして、遂に促め徴す
については、「促め徴す」と訓読してあり、徴収する意であると説明されている。
私の方では、徴は懲罰の懲と同意であると考えている。処刑である。千座置戸とは、チンギス・ハーンの血を引くものが処刑されるとき、その地を流すことが憚られ、フエルトの下に置き、その上を何頭もの馬が往来し圧殺した記事が残されているが、それを連想させるものがあろう。すなわち、「岩屋戸」を千座(何枚)も素戔嗚尊の上に「置」いて、圧殺したのではなかろうか。
江上波男の騎馬民族渡来説を採用するなら、素戔嗚尊も饒速日尊も騎馬民族である可能性があり、敗者とは言え、貴種の流血を避けた処刑法と考えるのは行き過ぎであろうか。
また、髪や爪を抜かれたものが解放もしくは追放となることが日本古典文学大系の補注にある。これはスサノヲ自身のことと考えるより、その一族に科せられた罪科と考えられないか。そうであるなら、豊国を追われたスサノヲの一族が、出雲で活躍する訳も私には首肯できるのだが。
天の石屋戸事変の真相
「天の石屋戸」伝承には、天香山に拠る素戔嗚尊の「国譲り」と「天神降臨」という歴史の真相が隠されていたようだ。
しかも、もう一つの重要な真相があったようだ。それは、素戔嗚尊が天香山における「日神」そのものであり、銅鏡も素戔嗚尊の系譜が代々祀っていたようである。日神素戔嗚尊の死に因り、高天原は一旦闇に閉ざされる。
侵略者の天神饒速日尊は、その没した日神の生まれ変わりとして、天の岩屋戸から黄泉帰るというショーを催し、日神の位を継承するのである。こうして、室伏志畔氏のいうグラフト(接木)国家が誕生するわけである。
万葉集の定型句、「八隅知し わが大王 高照らす 日の御子」はこの歴史の真相を継承している。
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