「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古宮八幡神社の『畧(略)縁起』に「最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曾隈 という所である。」とあります。「 阿曽隈社 」が、宇治天皇の宇治宮であり、天智天皇の菟道宮でもあります。
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香春町合併60周年記念講演『香春は国のまほろば』
(平成28年11月3日、於 香春町町民センターホール)の講演より
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鷹羽が、高羽 ⇒ 田川の語源
高住神社 の御神紋は、二の字のまわりに鷹の羽がある。この鷹羽が、田川の語源と思われる。香春町の 古宮八幡神社の御神紋は、丸に違い鷹羽。鷹羽の御神紋というのは、熊本県の阿蘇神宮(違い鷹羽)、菊池市の菊池神社(並び鷹羽)、山鹿市の大宮神社(並び鷹羽)などに広がっている。
北九州には、鷹羽の御神紋の神社は多い。これが、旧田川の地であり、 その中心が香春だったらしいという説です。
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香春は、伊勢神宮の発祥地
古宮八幡宮の神幸祭の掛け声は、「伊勢音頭」。
以下、福岡県田川地域の観光情報サイト「たがわネット」古宮八幡神社神幸祭より
採銅所の御神輿はワッショイ、ワッショイではなく、音頭保存会の音頭「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ~♪」のユックリした優雅な歌声に合わせて、厳かに進み出す。
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『真実の仁徳天皇』(平成27年7月25日、於 香春町コンベンションホール)の講演より
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古宮八幡宮の神幸祭
採銅所の方は、古宮八幡宮の神幸祭の時に山車の花飾りを一本一本脱いて、輪にして自宅に飾る。誰を偲んで飾るのか?
神幸祭は、宮原まで行く。阿曽隈社の下、「手水ヶ池」の所まで。宇治宮があった場所です。
宇治天皇を親しんだ人民の末裔である皆さんが、採銅所の古宮八幡宮のお祭りで知らず知らずのうちに宇治天皇を慕ってお飾りしてあるのではないでしょうか?推測です。
こちらは、宇治市の県(あがた)祭の梵天とは違い、あくあでも宇治天皇の徳をお慕い申し上げてそのご利益にあやかろうとしての風習だったのではないでしょうか?
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香春町合併60周年記念講演『香春は国のまほろば』
(平成28年11月3日、於 香春町町民センターホール)の講演より
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倭建命天皇が、美夜受比賣といた場所(香春)
・・・ 「大足彦忍代別天皇の豊国北伐」のページは、 こちら です。
倭建命天皇は、「草薙の劔」を佩いている。倭建命天皇が、倭国(豊国)の正当な天皇であり、草薙の劔を佩いていない。景行は、倭国(豊国)への侵略者である。
その倭建命天皇が戦いに出かける前に詠んだ歌、『古事記』 歌謡二八に「天の香具山」が出てくる。
古宮八幡宮の摂社に白鳥神社があり、その拝殿の左側に香春三ノ岳が見える。天香山が香春三ノ岳であれば、この場所で倭建命天皇が本当に詠んだ歌である。
倭建命天皇が美夜受比賣といた場所は香春であり、古宮八幡宮が最初に鎮座していた処である阿曽隈社だったかもしれない。
この場所で、叔母の倭姫命から「草薙の劔」を授けられる。倭姫命のことを「日本書紀』景行紀には、朝廷と書いている。ここ香春の地に朝廷があった。
『日本書紀 景行紀』
卌年冬十月 (中略) 於是、倭姬命取二草薙劒一、授二日本武尊一曰、愼之。莫怠也。
五十一年秋八月 (中略) 初日本武尊所佩草薙横刀、是今在二尾張國年魚市郡熱田社一也。於是、所二獻神宮蝦夷一等、晝夜喧譁、出入無レ禮。時倭姬命曰、是蝦夷等、不レ可レ近二於神宮一。則進二上於朝庭一。仍令レ安二置御諸山傍一。
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香春の神と天皇(その二) (令和6年4月6日、香春町郷土史会例会)より
「三重に曲がり固い餅のようだ」とあるが、これは、下記写真の「まがり」というお菓子の事だと考えている。このお菓子は、平安時代に紀貫之が実際に食べていたとされている。写真でも判るように三つの形になっている。「三重のまがり」だと言える。
もう一つの「唐菓子」は、更に古く唐と国交をしていた奈良時代から小麦や米粉で作り、油で揚げた固い餅(揚げ餅)を食べていたようである。
唐菓子
まがり
*1
唐櫃は、脚の付いた櫃。
次に日本武尊が亡くなった土地の能褒野は、三重県鈴鹿郡なんかではない。香春町のお隣、福智町の上野である。『上野村史』によれば、もとは「上野:のぼりの」と呼ばれていたから、ここが「のぼの(能褒野)」である。
日本武尊の白鳥陵については、『日本書紀』景行紀に「故、時人號二是三陵一、曰二白鳥陵一。」との記事があり、この白鳥神社こそ第一基目の白鳥陵だと考えている。
そして、第二基目の白鳥陵は、日本武尊に纏わる伝承が残されている田川市伊田にある最澄(伝教大師)が建てた白鳥神社の処ではないかと考えているが。
最後、第三基目の白鳥陵は、『日本書紀』仁徳紀に記されている鞍手町の古物神社近くにある事を読み取り、鎧塚古墳を見つけた。この古墳の隣には、やはり剣神社がある。ここにある1号墳は、日本武尊がやって来て鎧を奉納し、その鎧を埋めたから鎧塚と云われている。一般的に奉納された鎧は、宝物庫とかで保管されるが、ここでは、塚の中に埋められている。鎧が埋められたという事は、この鎧は日本武尊の遺品である。
したがって、日本武尊の遺骸は、古宮八幡宮の摂社・白鳥神社の地に埋葬し、鎧だけを家来たちが故郷である鞍手の地に運んできて、ここ鎧塚古墳に埋めたのではないかと考えている。
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