「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 豊前の干し柿 = 八竿八縵(やほこやかげ)非時(ときじく)香菓(かくのみ)

 倭国大乱と卑弥呼
(平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

 『古事記』に書かれた「非時の香菓」は、干し柿である

 八竿八縵の非時の香菓が、どうやら豊前の串柿・吊し柿(干し柿)のようである。田道間守は但馬国と豊前国とを往来したようである。
 天日槍(あめのひほこ)但馬国(兵庫県)に定住した。

 5代の孫が田道間守(たじまもり)である。使者となり、10年を経て常世(とよ)=豊国)から「八竿八縵(やほこやかげ)非時(ときじく)香菓(かぐのこのみ)」を携えて帰国したが、聖帝は死んでいた。陵の前で「おらび哭き」、自死した。
 阿羅斯等と同工異曲の伝説がある。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と全く同じような話が、天日槍(あめのひほこ)伝説として『垂仁紀』の末尾に残されている。天日槍は、但馬国(兵庫県)に定住したとある。
 その天日槍の5代の孫と書かれているのはおかしいが、田道間守(たじまもり)は、10年間を経て、通常は常世(とこよ)国から帰国したことになっているが、常世の「」は、万葉仮名であると「とこ」ではなく「」である。したがって、常世国は、「とよ」国(=豊国)と読める。

 豊国から八竿八縵の非時の香菓を携えて帰国したが、但馬(東鯷国)の聖帝が亡くなっていたので、その陵の前で「おらび哭き」し、自死したとある。

 「おらび哭き(叫哭)」と『日本書紀、垂仁紀』の原文にある。「おらび哭く」は、九州弁です。京都や奈良の言葉では無い。九州の言葉、豊前の言葉である。

 八竿八縵とは、8個を串に刺し8個を紐で通した非時)の香菓(ドライフルーツ)が、豊前の干し柿、串柿で吊し柿の事であったらしい。
 豊前の土地は、昔から吊し柿の産地である。

お菓子の神様

 田道間守公

(みかん)を持ち帰っ
たことになっ
ている。
四天王寺ワッソの多遅摩毛理
「写真(四天王寺ワッソの多遅摩毛理)」
「絵(田道間守公)」

 四天王寺ワッソの多遅摩毛理(たじまもり)は、『古事記』で書かれている文字である。非時の香菓を持ち帰ったという事で、田道間守公は、近畿地方ではお菓子の神様として扱われている。

 小さなお墓の前で泣いている絵である。『日本書記』では、非時の香菓が、「みかん」ではないかと書いている。違います。採銅所で作られている「干し柿」である。

香春町採銅所で
  古くから作られている吊し柿
 (1996年ごろ。森下重和氏提供)
「写真」

 最盛期には、1シーズンに1万個の柿を干していた。かつて、ここ豊前の土地では、尾谷柿といって長細い柿だった。それを1本の紐に8個吊るしていた。
 いまでは、豊前の土地でもいつもニコニコ仲睦まじくという事で10個吊るすそうであるが、採銅所では古くは、8個であった。また、今、道の駅 香春で販売している干し柿が、1パック8個入りである。

 干し柿は、本当に弥生時代からあった。卑弥呼が大物主に捧げていた可能性、卑弥呼自身が食べていた可能性、料理に使われていた可能性がある。昔は砂糖が無かったので、甘味料として使われていた可能性がある。

*.上記、吊るし柿の写真提供者が、採銅所の方のため所在地表示を採銅所としました。

<所在地のGoogelマップ>