「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
『日本書紀 仁徳紀』
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大宮を・・・興てて居します。」は、即位することを意味する。菟道の宮=宇治天皇の宮。
3年間の空位となっているが、 ⇒ 菟道稚郎子が、宇治天皇として即位していた。
『 播磨国風土記 』には菟道稚郎子を指すとされる「宇治天皇のみ世」という表現が見られる。
『宇治の京』 ・・・ 香春町古宮ヶ鼻の阿曽隈社
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「民のかまど」の逸話に由来する業績は、空位とされる3年間在位した宇治天皇の業績であり、本当の「仁徳」と称される天皇であり、通説の大鷦鷯天皇は「仁徳天皇」では無い。
この「木幡(=許の国)」に「宇治の京」があり、宇治天皇すなわち太子菟道稚郎子の后であった髪長媛は、「木幡(村)」の地の女性という意味で應神紀の歌謡(歌い手は、大鷦鷯尊)で「 古破儾嬢女 」と詠われている。
『山城國 風土記』 「宇治」
山城國風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮に天の下知らしめしし天皇の子宇治の若郎子、桐原の日桁の宮を造りて宮室と爲し給ひき。御名に因りて宇治と號ふ。本の名は許の國といひき。
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福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 真実の人徳天皇-香具山に登りて望國したまふ天皇」の資料「 宇治の京 村高完成版 」です。
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福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 鷦鷯取らさね―蔽い隠された皇位継承戦争の悲劇」の資料「 雀取らさね 」です。
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天智天皇の菟道宮
天智四年、白村江の戦いの後、唐の兵士がやって来て菟道で閲す。と記されているが、負けた側の天皇が勝った側の唐の兵士を閲兵する訳が無い。大義名分が逆転の記述である。
菟道の宮は、香春町の香春三ノ岳の麓辺りになる字古宮ヶ鼻という所にある阿曽隈社である。ここに唐の兵士がやって来たのだろう。
香春町の中に唐子橋という橋があり、ここを唐の兵士が渡って菟道宮へ入ったと考えている。阿曽隈社のことをこの土地の人たちは、「上権様」と言っている。止ん事無き方がいらっしゃったとことに間違いが無い。
天智四年、菟道に閲す
宇治宮(上権様)= 阿曽隈社(香春町古宮ヶ鼻)
『日本書紀 天智紀 四年 』 ・・・ 「白村江の戦い」の敗戦の後
九月の庚午の朔壬辰に、唐國、 朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣す。
等といふは、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を謂ふ。凡て二百五十四人。
七月廿八日に對馬に至る。九月廿日に筑紫に至る。廿二日に表函を進る。
冬十月の己亥の朔己酉に、大きに菟道に閲す。
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*.「宇治宮」跡地については、著書「真実の仁徳天皇」に記載されています。