「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
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『倭王朝の歴史とその遺構』(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より
神功皇后(神功天皇)は、『日本書紀』神功皇后紀の「六十九年に稚桜宮(田川市川宮の 若咲神社 )に崩りましぬ。」とあり、神功皇后は豊国に留まった事になる。
したがって、筑紫国の誰か別の人物が『萬葉集』4261番にある「水沼に都を建てた」。つまり神功皇后ではない別の人物の王権が建てられたと考えている。その「水奴麻乎皇都」(筑後の大善寺玉垂宮)に都を置いたのは、誰なのか?
『吉山旧記』にあるように「藤大臣が久留米の賊(桜桃沈輪)を退治して、その場所に都を置いた」という事になる。そして「帝名残をしみ、老臣は寔に天に候ては月也と仰せられしより、後代高良宮を月神と云ふ」とあるこの一節の帝こそが、神功天皇らしく、その老臣が、紀武内宿祢=藤大臣という事になる。
最初は、神功皇后が、水沼の皇都を建てたと思い込んでいたが、『松野連系図』には、讃・珍・濟・興・武という倭五王の系図が残されている。その倭五王の前代が縢とある。この人物こそ『吉山旧記』に出てくる藤大臣であろうと思われる。
また、『 宋史 日本伝 』(王年代紀)に出てくる大臣紀武内宿祢に当たる。藤大臣、つまり大臣紀武内宿祢である。その縢の後に倭五王(讃・珍・濟・興、武)と続くから水沼の皇都を建てたのは、紀武内宿祢だったらしい。
だから、ここに紀氏王権(紀という姓の王権)が新しく興った。つまり、神功天皇は豊国を治め、紀武内宿祢が始め倭五王に繋がる倭国(筑紫倭国)を納めた事になる。豊国倭国と筑紫倭国の二王朝が並立したのではなかろうかという考えに改まってきた。
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こちらが、その豊国倭国と筑紫倭国の二王朝の範囲を示す 地図 です。
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『万葉集』4260/4261番(水奴麻(水沼)の地に皇都を建てた歌)
※1
水沼という土地は、三潴郡を指している。
古代からの郡名が「三潴郡」であり、『和名抄』は「美無万」と訓じている。『日本書紀』には「水沼君」・「水間君」が記されている。
郡名は、筑後川下流域の後背湿地で沼沢が多かったこと因む説、「真沼」が転訛した説、「川と川の間の土地」の意・「ミヌマ(水間)」からとする説などがある。
※2
福永晋三先生の小論「 東西五月行の成立 」の18ページにある「鯷倭の興亡」には、征西を開始した神功天皇(神功皇后) が「松浦鼎の熊襲を滅ぼす」とありますが、
(註)
2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』以降は、下記の内容に修正されています。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島市にある宮地岳神社の祭神が勝門姫であるということが判明したのです。
『仲哀天皇記』は、魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は、宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようである。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※3
こちらが、「神功天皇の征西」に続く、穴門豊浦宮からの「 氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。
※4
翰苑では、「楽浪郡~倭奴国(倭国)まで、12,000里」と書かれたいたものが、魏志倭人伝では、「帯方郡~邪馬台国(倭国)まで12,000里」の距離に変わっているページの中で『隋書』「俀国伝」の「東西五月行」を紹介しています。
※5
『神功皇后の戦略(永井功著)』より主として筑豊関係の伝説から想定される「 神功皇后御行動図 」です。
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