「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
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第12代 景行天皇:豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮 =「御所ヶ谷神籠石」を設ける。(紀)
御所ヶ谷神籠石( 百磯城の大宮処の跡)
*.『日本書紀 歌謡一九』 「 大坂 に継ぎ登れる・・・」
*.何故か「京都郡」と書いて「みやこ郡」と読む。
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福永晋三先生のタイトル『東西五月行(統一倭国)の成立』の「 資料:東西五月行の成立 」の18ページの鯷倭の興亡にある「神功天皇(神功皇后) の征西」の「松浦県の熊襲を滅ぼす」とある松浦については、
2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』以降は、下記の内容に修正されています。
前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの再発見と新発見です。田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※ こちらは「神功天皇の征西」のページに続く、「 氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。
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「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に「東西五月行」の記述があります。
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『 万葉集
29番 』「近江の荒都に過りし時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌」は、『日本書紀』の神功皇后摂政元年二月三月の記事、神功皇后軍が忍熊王を滅ぼし入水自殺に追い込んだ戦記を念頭に置き、忍熊王の拠った百磯城の大宮処の跡を実際に訪れ、その荒廃を嘆き、併せて忍熊王の悲劇的な最期を傷んだ。
そこは天満つ倭の東方、豊国の淡海に展開された事変であった。武力革命による王朝交替のもたらす悲劇を詠んだ、優れた叙事詩である。
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