「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ
(平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演より
『綾塚古墳』の説明文、抜粋
この古墳は地元では、綾塚の郷屋と呼ばれており、景行天皇の妃、八坂入姫命を祭り、女帝窟又は女帝権現綾塚神社と
称していたが、明治二十四年に女帝神社と改められました。
綾塚古墳については、本居宣長も紹介しており、全国的にも希れにみる雄大な横穴石室を持っている点で極めて貴重な
史蹟であり、毎年全国から多くの見学者が訪れています。
この古墳は、景行天皇の妃、八坂入姫命となっており、時代的に「台与」と合う。女帝窟、女帝神社と称されるので、
倭国(邪馬台国)の女王は、卑弥呼と台与の二人で、一方の卑弥呼の墓は前方後円墳であるので、こちらが台与の墓と
推定している。
※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より
「 天皇家と蘇我氏の歴史⑥ 推古天皇 」 より
卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月癸丑、天皇崩之。秋九月己巳
朔壬辰、葬竹田皇子之陵。
西暦六二八年、推古天皇崩御。竹田皇子の陵は推古記に「御陵在二大野岡上一。後遷二科長大陵一也」と
あるから、みやこ町黒田にある綾塚古墳(黒田地図2)と思われる。
別名が女帝神社であり、橘塚古墳より大きく若干新しく、七世紀前半頃の成立とされている。科長大陵にふさわしい。
なお、明治四年の女帝神社皇妃御陵墓絵図が遺されている。さらに、明治五年に来日したイギリス人の造幣技師
ウィリアム・ガウランドが綾塚古墳の石室実測図を作成し、現在大英博物館の中に収められている。
<所在地のGoogelマップ> ・・・ ストリートビューは、「綾塚古墳」入口表示板