「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 立岩神社 = (あまの)磐盾(いわたて)

 熊野神社の所の地名:立岩(たていわ) = あまのいわたて
 立岩遺跡:福岡県飯塚市立岩の遠賀川にのぞむ丘陵上にある弥生時代の遺跡群の総称。この立岩遺跡は、神武天皇が東征( 第二次東征 )で滅ぼした遺跡である。

 磯城彦との立岩丘陵の激戦は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の 118年 十一月 です。

 鞍手郡誌(昭和 9 年発行版) 射手引神社 社伝による神武天皇東征の地( 東征コース   O:立岩)。

 立岩産石包丁の流通地域図は  こちら で、立岩遺跡の所にあった国の勢力範囲を示す。

   立岩遺跡の人骨 の写真は、「田力男命の子孫にして磯城彦の先祖」の王の人骨で腕には、沖縄周辺の海でしか採れない護法螺貝の貝輪をしている。という事は、沖縄方面との交流もあった。

 また、この立岩遺跡から出土される有名な物が、「前漢式鏡」である。「後漢式鏡」ではない。紀元前の中国で作られた鏡がまとまって出土される遺跡は、立岩遺跡以外にない。
 この強大な勢力を持った国を神武天皇は、滅ぼした。

 『日本書紀 神武紀 戊午年』

 六月の乙末の朔丁己に、軍、名草邑に至る。則ち名草戸畔といふ者を
誅す。遂に 狭野(さの)を越えて、 熊野 の神邑に至り、且ち (あまの)磐盾(いわたて) に登る。

 

 「立岩神社の証言」の写真、壊されている「天の磐舟(天神降臨の天物部二十五部族のモニュメント)」は、各地にある。

<立岩神社/貴船神社:壊されている「天の磐船」>

「講演時のスライド(天の磐船)」

 

 舟石権現 :壊されていない「天の磐船」>

「講演時のスライド(天の磐船)」

 

 『射手引神社社伝』の「立岩」が、『日本書紀』の「天磐盾に登る」であり、この立岩神社である。その立岩神社に折られている石がある。
 鳥栖市には、舟石権現という「天の磐船」(=帆掛け舟)の遺跡が残されており、紀元前に韓半島から帆掛け舟に乗って天神降臨が行われている。
 立岩神社にあるその天の磐船は、船体の石の部分が真っ二つに折られてる。手前に転がっている石が帆の部分である。これは、神武天皇が壊したと思われる。
 神武天皇が東征で倒した相手は、我々が知っている天照大神の建てた国であり、天照大神は、女性神ではなく、男神である。天皇家の先祖ではない。伊勢神宮に祀られている天照大神は、饒速日尊である。
 神武天皇は、饒速日尊の末裔を滅ぼしたので、天照大神は皇室にとって祟り神であり、先祖神ではない。だから、伊勢神宮は、現世御利益を願う神様ではなく(お賽銭をあげる神様でなない)、お賽銭もあげずに一年無事で過ごせました。感謝致します。祟り神だから祟らないでくれて有難う。と、お参りする神様である。
 天照大神を祀る神社のもう一つの特色は、参道が必ず折れ曲がる。鎌倉の鶴岡八幡宮のように拝殿に向かって参道が一直線ではない。祟る神を鎮めておく為に参道は、曲げておく。
 「天の磐船」が壊されているという事は、神武天皇は間違いなくここに来られた。神武天皇を架空とは言ってられない。

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ ストリートビューは、立岩神社の北側にある「立岩遺跡」がある