「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 熊野神社 = 神社の鳥居の所(神武天皇の上陸した熊野荒坂津)

 熊野神社の所が「 熊野の崎」。ここに神武天皇は上陸して、熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。
 (立岩丘陵の激戦)

「講演時のスライド(絵地図)」

 

「講演時のスライド(写真)」

 

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

熊野神社」(旧飯塚市大字立岩字浦の谷)の新旧の由緒にこうある。

旧縁起》(昭和十九年福岡県神社誌 部分)
 祭神:伊弉諾命、伊弉那美命

 當社記曰、神武天皇遷居、朝倉橘廣庭宮、朝倉宮御宇夏六月、異人熊野の崎に數十人漂着す。其人共日數三日を經ずして悉く頓死す。
 日ならずして疫病暴行土人多く病む。(此の下に文字あるか)神有て邑長の兒小蟲に憑て、吾は則伊弉那岐尊なり汝等宜しく吾宮を熊野崎に建て齋き奉れと。則邑長朝倉の宮に奏す。天皇聞食して宮符を太宰帥日向臣に給ひ、宮殿を熊野崎に造營して二尊を祀る。是熊野宮又熊崎宮と稱す。(中略)
 社説に伊弉那岐命、伊弉那美命、大巳貴命、少名彦命、手力雄命五柱を祀りしが、其後諾册二神を今の熊崎に移し熊野社と號し、大巳貴、少名彦命二柱神を別殿に齋き遷宮大明神と號す。
 手力雄命は今の熊野社の北三町餘の高處に不動岩ありて立岩と稱する處に祀れり。

先代宮司時枝満定氏の由緒》(昭和五十年 部分)

 社記神武天皇御東征の砌り雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺を辨ぜず時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す其状拾も屏風を立てたるが如し電光赫々の中岩上に神現れて曰く我は天之岩戸神名を手力男神と言ふ此の処に自ら住める惡鬼あり其状態に似て熊に非ず蜘蛛に似て左に非ず手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を恃みて恣に天皇を惑はんとす最も憎む可きなり我巨岩を擲て其賊を誅す
 自今吾が和魂は此の岩上に留って筑紫の守護神たらん又荒魂は天皇の御前に立ちて玉體を守護すべきなりと爰に天皇駒主命をして厚く祭らせ給ふ
 三十六代ママ清和天皇の御宇大巳貴神少彦名神を別殿に斎き奉りて遷宮大明神と号す
 三十七代斎明天皇の御世諾册二神を今の熊崎に移し奉る熊崎詞後熊野宮と言ふ

新縁起》(平成十三年以降 現宮司特枝満晴氏による)

 神武天皇が九州から大和に攻め上がられた時に、立岩村の地で激しい嵐にあい進めなくなりました。そこで祖先の神々に祈願なさると、天から巨岩が雷光とともに落ちて大地に突き立って雨が止み、戦いに勝って平穏になりましたという伝説があり、それで「立岩」の地名と神霊の宿る岩を熱くお祭りしたのが、立岩神社の由来であります。
 また、立岩丘陵の周辺は一面沼地でした。
 その後、斎明天皇が朝倉宮を造営なさった年(六六一年)の夏六月、異人(外国人)達が熊野の崎(現在熊野神社のあるところ)に漂着し、三日後彼ら全員が急死しました。その数日後疫病が流行して村人達の多くが死にました。
 すると村長に「我は伊耶那岐命である。あなた達はわたしの宮をこの熊野崎に建てて謹んでお参りしなさい。」とお告げがありました。
 村長は朝倉の宮に報告し、許可を太宰府の長官から頂き、神殿を造営して二神をお祭りしました。すると瞬く間に疫病が治まったという今の熊野神社の縁起です。

 *.これらの熊野神社の社伝が神武紀の次の一文を解明する手掛かりとなった。

  遂に狭野を越ゆ。熊野の神邑に到る。且ち天磐盾に登る。

 従来の通説を根本から覆し、我が国古代史のコペルニクス的転回とも呼ぶべき史実が蘇った瞬間であった。日本書紀は「神武が筑豊に東征した」数々の史実を、この一文に閉じ込め、隠蔽したのである。
 「遂に狭野を超ゆ。」は 求菩堤山縁起 によって解明できた。この後に射手引神社社伝と筑豊の各神社社伝に残された神武東征のコースが綿々と続く。
 そして、この熊野神社社伝にあるとおり、神武軍は片島から古遠賀湾を渡り「熊野の崎」に上陸を敢行し、立岩遺跡がその実在を証明する「熊野の神邑に到る。」のであった。
 勝負坂(記にいう熊野荒坂津か)で敵(兄磯城か)に勝った神武は、「今の熊野社の北三町餘の高處に不動岩ありて立岩と稱する處」、「且ち天磐盾に登る」。そうして「天磐盾(=立岩神社)」の頂上で、「天皇が天祖(伊弉諾命、伊弉那美命)に(東征成就を)祈願し給ふた」ことが推測される。
 「駒主命」に祭らせたとあるから、倭奴国建国の第一の功臣と目される「立岩の王」であった手力雄命の末裔に勝利したのち、駒主命が新「立岩の王」に即いたのであろう。
 なお、先の射手引神社にも「手力雄命」が祭られているから、古代「鎌(嘉麻)」の地(日本書紀では、安閑天皇二年(西暦五三五年)に鎌・穂波の屯倉を置いたという記録が最古である。)は広く手力雄命とその系譜が領有していたことになる。
 立岩神社にも手力雄命が祭られているのは、「弟磯城」が神武に帰順したからであろうか。弟磯城は後の磯城県主とも推測され、ここの駒主命とも考えられるから、鹿毛馬神籠石城主とも目されるのである。

通説では「熊野荒坂津」は比定できていない。

通説の神武東征(戦前)
昭和十七年文部省発行
   神武天皇聖蹟調査報告
盾津(大阪府中河内郡孔舎衙村。今の枚
岡市北部)
名草邑(和歌山県海草郡。和歌山市。今
の和歌山市西南部)
磐余邑(奈良県磯城郡桜井町・安倍村・
香久山村。今の桜井市桜井付近から橿原
市の東端部にかけての地)
狭井河之上(奈良県磯城郡三輪町・織田
村。今の桜井市三輪付近)
<未決定地>
高千穂宮。速吸之門(速吸門)。一柱騰
宮。岡田宮。血沼海。天磐盾。熊野荒坂
。吉野。国見丘。忍坂大室。高佐士野。
腋上嗛間丘
※『古事記』『日本書紀』に拠る比定地
(通説)

 昭和十三年から十五年にかけ文部省で行なった神武天皇聖蹟調査においても、的確な地点地域を考究すべき十分な徴証がないものとして決定を見合わせたとするうちの、「天磐盾熊野荒坂津。」を初めて比定し得たのである

以下、『新説日本書紀(第10回、2021年12月17日)』講座動画の画像より

 日本書紀に書かれている「熊野荒坂津」は、飯塚市の熊野神社の所である。その熊野神社の社記に「鯰田(熊野)の海戦」の様子が書かれている。その説明は、  こちら からご視聴頂けます。

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
 六月の乙未の朔丁巳に、軍至名草邑、則誅名草戸畔(とべ)者。戸畔、此云妬鼙(とべ)遂に狹野を越えて、熊野の神邑に到らむとす。且登天磐盾、()りて軍を引きて(よう)やくに進む。(わた)の中にして(にはか)暴風に遇ひぬ。皇舟(みふね)漂蕩(ただよ)ふ。時に稻飯命乃ち歎きて曰はく、「()()、吾が祖は天神、母は海神(わたつみ)なり。如何にぞ我を陸に(たしな)め、復我を海に厄むや」と。言ひ(をは)りて、乃ち劒を拔きて海に入りて、鋤持(さひもち)の神と化爲()る。三毛入野命、亦恨みて曰はく、「我が母及び(をば)は並に是海神なり。何爲(いかに)波瀾(なみ)を起てて、灌溺(おぼほ)すや」とのたまひて、則ち浪の()を蹈みて、常世の(くに)に往でましぬ。天皇獨り皇子手硏耳命と、軍を帥ゐて進み、熊野荒坂津 亦の名は丹敷浦(にしきのうら) に至ります。
熊野の荒坂
写真:熊野の荒坂

Ⓒ福岡の杜

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
・鯰田(熊野)の海戦
熊野神社 (飯塚市大字立岩字浦の谷)
 社記神武天皇御東征の砌り雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺(しせき)を辨ぜず時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す(その)(さま)(あたか)屏風(びょうぶ)を立てたるが如し電光赫々(かっかく)の中岩上に神現れて曰く我は天之岩戸神名を手力男(たぢからお)と言ふ此の処に自ら住める惡鬼あり其状熊に似て熊に非ず蜘蛛に似て左に非ず手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす彼今怪力を(たの)みて(ほしいまま)天皇を惑はさんとす最も憎む()きなり我巨岩を(なげうっ)て其賊を誅す
(自今吾が和魂は此の岩上に留つて筑紫の守護神たらん又荒魂は天皇の御前に立ちて玉體(ぎょくたい)を守護すべきなりと爰に天皇駒主命をして厚く祭らせ給ふ)
熊野神社社伝
説明板:熊野神社・由緒

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 熊野神社(大字立岩字浦の谷)