「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 負立八幡宮 = 仲哀天皇の棺を背負ってきた橿日宮

※ 魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ
  (平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演より

 『日本書紀』によれば、伊都県主の五十迹手が帰順した後、儺県に至り橿日宮に入った。とあり、たぶん、その後に朝倉市の平塚川添遺跡美奈木神社に拠る羽白熊鷲を殲滅する。
 この時に足仲彦天皇(仲哀天皇)が敵の矢に当たったか何かで怪我をして筑紫の橿日宮で崩御する。
 その後、遠賀の地で物部氏を召集して新北津を出航し、筑紫の末羅縣の勝門比賣を滅ぼすという歴史事実を『神功皇后紀』からしっかりと読み取った。今まで儺県と橿日宮の認識が甘かった。
 現在、橿日宮は何処にありますか? 福岡市東区の香椎宮ですね。この宮は違う。後に移った先の橿日宮である。
 儺県は、『魏志倭人伝』の奴国(のー、ぬー)国であり、通説では、「な国」と読み。奴国は、儺県であり 曩祖八幡宮 ではないか?
 次に、橿日宮は何処か?

『日本書紀 仲哀紀 八年 』
 己亥に、儺県に到りまして、因りて橿日宮に居します。

 儺県の橿日宮は、負立(おいたて)八幡宮。この負立と言う文字は、仲哀天皇の棺? を背負ってきたからで、元々の橿日宮は、ここか?
 境内には栢の木が植わっている。この神社の場所は、柏の森と言うが、「かやのもり」とは読めない。通常は、「かしのもり」としか読めない。
 筑紫の 末羅縣 (宗像市)の(かち)門比賣(どひめ)を討伐する前には、穴門方面からは行けない。したがって、福岡市東区の  香椎宮 は、移った先の橿日宮である。

『日本書紀 神功紀』
 戊子に、皇后、熊鷲を撃たむと欲して、橿日宮より松峡宮に遷りたまふ。

 橿日宮が、飯塚市であれば、 松峡宮 (筑前町)へは、飯塚市と筑紫野市に跨る冷水峠 を越えれば行ける。

橿日宮(負立八幡宮:飯塚市柏の森)

写真「負立八幡宮」
写真「負立八幡宮」

 新説 日本(やまとの)書紀(ふみ) 第19回(9月29日)神功皇后③『洞の海から岡の海へ進軍』の記事より引用

 すでに熊鰐と五十迹手が帰順しているので、神功は古遠賀湾を南下し、「儺県(なのあがた)に至り、橿日宮(かしひのみや)に上陸」した。
 儺県は魏志倭人伝中の「奴国(ぬこく)(飯塚市曩祖八幡宮周辺)」と思われ、神功の時代に()県と読みが変わったようだ。
 橿日宮は当時の遠賀湾の歳奥部、現在の飯塚市の(かや)の森に鎮座する負立(おいたて)八幡宮と思われる。この宮には(かや)の木が一本しかなく、橿の木ばかりである。
 負立八幡宮が「元の橿日宮」との仮定に立つと、神功紀の最初の熊襲国征伐が分かりやすくなる。

  (中略)

 この戦いの直前に豊前の仲哀が熊鷲側の矢に当って死ぬ。小栗市大保に鎮座する 御勢(みせ)大霊石(たいれいせき)神社 の地だ。
 福岡県神社誌によれば、ここに陣を置いた仲哀は「前線を巡り、黄昏時(たそがれどき)に御帰還の途中、敵の流矢に当たり、看病空しく崩御した」とある。
 神功は仲哀の(ひつぎ)を負わせ橿日宮に帰り、棺を立てて軍議を開いたと香椎宮の「棺掛椎(かんかけのしい)」伝承に残る。負立八幡こそ橿日宮と考える根拠である。

※ こちらが「神功天皇の征西」に続く、穴門豊浦宮からの「  氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。

※ 新説 日本書紀(第19回、令和4年7月1日、神功皇后②)
 (担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より

西日本新聞・筑豊版(平成30年9月29日)

画像「平成30年9月29日新聞記事・新説日本書紀」

負立八幡宮縁起(嘉穂郡誌)

画像「負立八幡宮縁起(嘉穂郡誌)」

負立八幡宮縁起(嘉穂郡誌)

画像「負立八幡宮縁起(嘉穂郡誌)」

負立八幡宮縁起(嘉穂郡誌)

画像「負立八幡宮縁起(嘉穂郡誌)」

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