「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 字 岡本(光明八幡神社)=「飛鳥岡本宮」の地 / 滑 = 舒明天皇の滑谷岡陵

 福永晋三先生のタイトル「万葉集の軌跡-倭歌が解き明かす古代史 それは香山(かぐやま)の東にあった!」の資料「 狂心の渠と吉野宮 」の9ページに『赤村に「岡本」の字名があり、そこに「光明八幡社(三百年余り前は我鹿八幡社が鎮座)」がある。
 その宮を「(後)飛鳥岡本宮」跡と比定し、その南「 大原 」にある貴船神社の辺りを「飛鳥浄御原宮」跡と大胆に比定した。』とあります。

 『日本書紀 斉明天皇紀 二年』

是年、飛鳥の岡本 に、更に宮地を定む。時に、高麗・百済・新羅、並に使を遣して調進る。為に紺の幕を此の宮地に張りて、饗たまふ。遂に宮室を起つ。天皇、乃ち遷りたまふ。号けて後 飛鳥岡本宮 と曰ふ。

 (やまと)王朝の歴史とその遺構(平成29年3月19日、於 福岡県立大学)講演より

<倭国東朝 遠つ飛鳥岡本宮>

「写真(光明八幡神社)」

 舒明天皇 滑谷岡陵

「絵地図」

 岡本にある光明八幡神社が、 舒明天皇 の宮=倭国東朝(豊国倭国)の飛鳥岡本宮であり、その北側には(なめら)という地名がある。
 ここに、滑古墳群がある。古墳の中は、今は空っぽで何もないが、その三基ある古墳の一基が、舒明天皇の滑谷岡陵であろう。

 『日本書紀』皇極天皇元年十二月の記事に「壬寅、葬息長足日廣額天皇于滑谷岡。」とある。そして、皇極天皇二年の「九月丁丑朔壬午、葬息長足日廣額天皇于押坂陵。」とあり、押坂陵へ改葬されている。この押坂陵が、大任町の建徳寺2号墳の隣にあった、現在は道路になって壊されて無くなった1号墳ではなかったかと考えている。

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 「岡本」は、光明八幡神社で表示