「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
長源寺・織田廣喜美術館 = 東大寺跡(大仏も建てられていた)
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千手氏と天智天皇 ―嘉穂郡誌と日本書紀― (令和6年2月23日 於:千手寺)より
聖武天皇の時代に筑豊で大仏を建造された
大仏の内壁を見れば、継ぎ目がわかる。また、所々に鎹も使われている。
したがって、大仏は各パーツを造り、繋ぎ合わせて組立られた事がわかる。そのパーツは、何処で造られたか? 原材料の銅を香春町の採銅所から運び、福智町上野の鋳物師原付近で造った。何故か陶器の町に「釜ノ口」、「釜蓋」という金属関係の字名も見える。また、その上野には有名な興国寺がある。
福智町上野で造られた大仏のパーツは、ここ嘉麻市臼井の長源寺・織田廣喜美術館辺りにあった東大寺の地で組立られた。
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平城京
長岡京
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延暦3年5月16日 長岡村の視察使
3年6月10日 造長岡宮使を任ず
3年11月11日 長岡宮に移幸
4年8月24日~9月24日 平城宮行幸
8年7月14日 三関の廃止
10年9月16日 越前、丹波、但馬、播磨、美作、
備前、阿波、伊予等の國に仰せて平城宮の
諸門を壊して運び、以て長岡宮に移し作ら
しむ。(続日本紀)
11年1月1日 皇帝、大極殿に朝賀を受く
越前
丹波
但馬
播磨
美作
備前
阿波
伊予
『続日本紀』に、「平城宮の諸門を壊して運び、以て長岡宮に移し作らしむ」とある時に奈良市に平城京が造られていたのであれば、特に美作、備前、阿波、伊予等の國に仰せて運ばなくても畿内の國だけで十分である。
豊前(桂川町)に平城京が造られていたからこそ、平城宮の諸門を瀬戸内海を通って、長岡京に運ぶ為に『続日本紀』に書かれている國々の力が必要であった。
長岡京遷都後の東大寺
奈良で大仏の修理
【結論】東大寺の大仏
<所在地のGoogelマップ> ・・・ 東大寺は、長源寺・織田廣喜美術館の所に建っていた