「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 長源寺・織田廣喜美術館 = 東大寺跡(大仏も建てられていた)

 千手氏と天智天皇 ―嘉穂郡誌と日本書紀―  (令和6年2月23日 於:千手寺)より

 平城京は、桂川町土師三区にある長明寺辺りに大極殿が建てられていたと推定している。その地より約3㎞弱東の嘉麻市臼井にある長源寺・嘉麻市立織田廣喜美術館辺りに東大寺が建てられていて、その地に大仏も建立されていた。 (点滅文字にオンマウスで周辺地図を拡大表示します。)
地図「桂川町土師〜嘉麻市臼井」
長源寺

東大寺の大仏

 東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願、造像は天平17年(745年)から準備開始、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。
  のべ260万人が工事に関わったとされる。
  天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席、参列者は1万数千人に及んだ。
 開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した。
東大寺の大仏

聖武天皇の時代に筑豊で大仏を建造された

 一体成型で造られた ⇒ 
奈良大仏の鋳造技術と2,3の啓示
東大寺の大仏

 大仏の内壁を見れば、継ぎ目がわかる。また、所々に(かすがい)も使われている。

 
奈良大仏の内壁
奈良大仏の内壁
 
奈良大仏の内壁
東大寺の大仏

”奈良大仏の鋳造技術と2,3の啓示″ 鋳造工学 第72巻(2000) 第3号より(@石野亨)

 したがって、大仏は各パーツを造り、繋ぎ合わせて組立られた事がわかる。そのパーツは、何処で造られたか? 原材料の銅を香春町の採銅所から運び、福智町上野(あがの)鋳物師(いもじ)(ばる)付近で造った。何故か陶器の町に「釜ノ口」、「釜蓋」という金属関係の字名も見える。また、その上野には有名な興国寺がある。
 福智町上野で造られた大仏のパーツは、ここ嘉麻市臼井の長源寺・織田廣喜美術館辺りにあった東大寺の地で組立られた。

桓武天皇の時に長岡京へ遷都

地図「平城京→長岡京へ」


平城京

長岡京

延暦3年5月16日 長岡村の視察使   
  3年6月10日 造長岡宮使を任ず   
  3年11月11日 長岡宮に移幸   
  4年8月24日~9月24日 平城宮行幸   
  8年7月14日 三関の廃止   
  10年9月16日 越前、丹波、但馬、播磨、美作(みまさか)
   備前、阿波、伊予等の國に仰せて平城宮の  
   諸門
を壊して運び、以て長岡宮に移し作ら
   しむ。(続日本紀)   
  11年1月1日 皇帝、大極殿に朝賀を受く

越前

丹波

但馬

播磨

美作

備前

阿波

伊予

 『続日本紀』に、「平城宮の諸門を壊して運び、以て長岡宮に移し作らしむ」とある時に奈良市に平城京が造られていたのであれば、特に美作、備前、阿波、伊予等の國に仰せて運ばなくても畿内の國だけで十分である。
 豊前(桂川町)に平城京が造られていたからこそ、平城宮の諸門を瀬戸内海を通って、長岡京に運ぶ為に『続日本紀』に書かれている國々の力が必要であった。

長岡京遷都後の東大寺

 延暦3年の長岡京遷都後百年近く、東大寺と大仏は、そのまま九州の平城京の近く(桂川町の隣の碓井)に放置された。
 ・延暦8年
 ・延暦()15年
 ・弘仁3年10月

 ・斉衡(さいこう)2年
  (855年)
造東大寺司を廃止
水害で東大寺の墻垣(しょうえん)が倒れたが放置
官家功徳封物の東大寺収納を停止し、近畿平安京の東西二寺諸司に収蔵。建物大仏とも六十年以上放置され、風雨、水害、地震などで荒廃
毘廬舎那(びるしゃな)大佛(だいぶつ)が自然落下
 ・延暦八年三月戊午(19) 
 ・延暦十五年八月甲子(6) 
 ・弘仁三年九月乙亥(20)

 ・ 同年 十月癸丑(28) 
造東大寺司を廃す
大和國山崩れ水溢る。東大寺墻垣倒れ傾く
勅、天平勝寶格に依り、東大寺四面二里の内は殺生を聴さず(後略)
官家功徳封物、東大寺に収ことを停む。東西二寺諸司に収造す

奈良で大仏の修理

 ・貞観元年7月23日
  (859年)

 ・貞観2年4月8日

 ・貞観3年3月12日

 ・貞観()3年3月14日
  
藤原家宗を修理東大寺大仏長官に任ず
日頃より高度の技術者と知られていた齋部(いんべの)宿祢(すくね)文山(ふみやま)に実際の修理の技術部門を担当させた
東大寺第廬舎那仏会事はすべて、修理大仏検校の真如に任じ、賀陽(かや)親王(しんのう)(みなもとの)(ひろむ)伴善男(とものよしお)に供養大仏会事を担当させる
従八位下齋部宿祢文山に東大寺大仏の修理技術の巧みさ、仕上げの速さに対して、従五位下を授けた
東大寺に於いて、無遮大会(むしゃだいえ)を設け、廬舎那仏を供養し奉る。 (中略)
是日、即便開眼佛師を籠に入れ、轆轤(ろくろ)を引上げ、乃ち佛眼を(てん)

【結論】東大寺の大仏

 大佛の鋳造は和同開珎の時代、香春岳にごく近い紫香楽(しがらき)京(福智町上野)で鋳造された。本体部分は主に香春の銅が使われたと考えられる。
 高温作業のため、周辺の山林の火事が頻発したため、志我の地の大仏建立は諦め、塗金など最後の仕上げは後の東大寺の地(嘉麻市碓井)で行った。
 近畿に遷都以降、東大寺はそのまま放置、老朽化。文徳時代に大仏の頭が自然落下した時、東大寺の僧真如の奏言により、大仏を解体、郡國が分担して便を使い、現在の奈良県に移送し、修理することになった。
 およそ4年後の貞観元年に移送完了。大仏の頭部と本体を別々に組み上げ、クレーンと滑車を巧みに利用し、大仏の頭を吊り上げ、本体上に移動し頸に繋げるという方法で、短期間で作業を終了できた。貞観3年に供養の無遮法会で開眼を行った。

<所在地のGoogelマップ> ・・・ 東大寺は、長源寺・織田廣喜美術館の所に建っていた