「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 田原遺跡  =  菟田の血原(菟田上縣か?)

以下、2021年12月3日(金)、『新説日本書紀』第9回講座より

菟田(うだの)穿(うかちの)(むら)

 「菟田縣の血戦」の説明は  こちら からご視聴頂けます。

第二次東征
菟田縣の血戦
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿邑(川崎町)に至る。菟田縣
 の血戦に勝つ。
  九月、菟田川の朝原に顕齋をなす。
(日本書紀)
中元寺川・甌穴群

菟田の穿(うかちの)(むら)
川崎町
天然記念物 中元寺川・甌穴

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第二次東征
菟田縣の血戦
 遂に菟田(うだの)(しもつ)(あがた)に達す。因りて其の至りましし處を(なづ)けて菟田(うだの)穿(うかちの)(むら)と曰ふ。時に、(みことのり)して日臣命(ひのおみのみこと)()めて曰く、「汝、忠にして(また)勇あり。加へて()(みちびき)の功有り。(ここ)を以ちて、汝が名を改め道臣(みちのおみ)と爲す」とのたまふ。
 秋八月(はつき)甲午(きのえうま)(ついたち)乙未(きのとひつじ)に、天皇(すめらみこと)()(うかし)及び弟猾(おとうかし)()さしむ。
 是の兩人は、菟田(うだの)(あがた)魁帥(ひとごのかみ)也。時に()(うかし)は來たらず、弟猾(おとうかし)は即ち詣い至る。
 因りて軍門を拜みて告げて曰さく、「臣が(このかみ)()(うかし)(さかしまなるわざ)を爲す(かたち)は、天孫(あめみま)到らんとするを聞きて、即ち(いくさ)を起こして襲はんとす。皇師(みいくさ)(いきおひ)を望み見るに、敢へて(あた)るまじきを()ぢて、乃ち(ひそか)に其の兵を伏せて、(かり)新宮(にひみや)を作りて、殿の内に(おし)()きて、(みあえ)を請ふに因りて作難(まちと)らんとす。願はくは、此の(いつはり)を知りて、善く(そな)へ爲したまえ」。
第二次東征
菟田縣の血戦
 天皇(すめらみこと)、即ち道臣命(みちのおみのみこと)を遣し、其の(さかしまごと)(かたち)()さしめき。
 時に、道臣命(みちのおみのみこと)(つまびらか)(あた)の害する心有るを知りて、大きに怒り(たけ)(ころ)ひて曰く、「(やっこ)(おれ)が造れる屋に(おれ)自ら(いりゐ)よ」。
 因りて、案劒(つるぎのたかみとりしば)り、彎弓(ゆみひきまかな)ひて、()()ひ入れしむ。()(うかし)、罪を天に()たれば、(こと)(まう)す所無し。乃ち自ら(おし)を蹈みて(おそ)はれ死にき。
 時に其の(かばね)(ひきいだし)て之を斬る。流るる血、(つぶなぎ)を没す。故に其の地を(なづ)けて、菟田(うだの)血原(ちはら)と曰ふ。
 (すで)にして弟猾(おとうかし)、大きに牛酒(しし)(まう)けて、以ちて皇師(みいくさ)(ねぎら)(みあえ)す。
 天皇(すめらみこと)、其の酒宍(しし)を以ちて、軍卒に(あか)ち賜ふ。乃ち御謠(みうたよみ)爲して曰く、

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

八 道臣命 大久米命 詔を奉じて兄猾を誅す

八 道臣命 大久米命 詔を奉じて兄猾を誅す

菟田縣の血戦
地図「天降神社(菟田下縣)」

田原遺跡
 (菟田の血原)

菟田穿邑(菟田下縣)

 神武天皇軍は、彦山から西に尾根伝いに木城村へ。そこから中元寺川沿いに北上し、菟田穿邑(天降神社)へ。

川崎町史より「天降神社周辺の地図」

第二次東征
菟田縣の血戦
 彦山から八咫烏一族の道案内によって、尾根伝いに菟田穿邑(川崎町)に入る。
 旧木城村に「大王」の字名が遺る。

旧木城村

彦山から

第二次東征
菟田の血原(田原遺跡)
Ⓒ川崎町教育委員会
田原遺跡
北方角(←)

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 「田原遺跡」は、ジョイフル田川川崎店の周辺