「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 春日神社 ・・・ 天日別命(=天日鷲命)を祭る

以下、『新説日本書紀(第10回、2021年12月17日)』講座動画の画像より

  京築方面の神武東征が、『伊勢國風土記』逸文にある。そこに出てくる「天日別命」が、祭られて
   いる神社が田川市の春日神社にある。
   「天日別命(=天日鷲命)」の説明は こちら の動画からご視聴頂けます。

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 京築方面の神武東征(風土記逸文)
 伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世の孫、天日別命(あめのひわけのみこと)(こと)()けし所なり。天日別命神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇(したが)ひて紀伊の國熊野村に到りき。時に、金の烏の導きの(まま)中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇大部(おほとも)日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる(ともがら)膽駒(いこま)長髓を早く征罰せよ」とのりたまひ、(また)天日別命に勅りたまひしく、「國、天津の方に有り。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち(しるし)の劒を賜ひき。天日別命、勅を奉じてに入ること數百里。其の邑に神有り、名を伊勢津彦と曰へり。天日別命、問ひけらく、「汝の國を天孫(たてまつ)らむや」といへば、答へけらく、「吾此の國を()ぎて居住むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。天日別命、兵を發して其の神を(りく)さむとしき。時に、(かしこ)み伏して(まを)しけらく、「吾が國は(ふくつ)天孫(たてまつ)らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。天日別命、問ひけらく、「汝の
第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 (風土記逸文)(つづき)
去らむ時は、何を以ちてか(しるし)()さむ」といへば、(まを)しけらく、「吾は今夜を以ちて、八風を起こし海水(うしほ)を吹き、波浪に乘りて東に入らむ。此は則ち吾が()る由なり」とまをしき。天日別命整へて窺ふに、中夜(よなか)(いた)(ころ)、大風四もに起りて波瀾を扇擧(うちあ)げ、光耀(てりかがや)きて(ひる)の如く、陸も海も共に(あきら)かに、遂に波に乘りて東にゆきき。古語(ふること)に、神風の伊勢國、常世の浪寄する國と云へるは、(けだ)しくは此れ、之れを謂ふなり。伊勢津彦の神は近く信濃の國に住ましむ。)天日別命、此の國を懷け柔して、天皇復命(かへりごと)まをしき。天皇大いに歡びて、詔りたまはく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて、即ち天日別命封地(よさしどころ)の國と爲し、宅地(いへどころ)大倭耳梨の村に賜ひき。(或本に曰はく、天日別命、詔を奉じて、熊野の村より直に伊勢國に入り、荒ぶる神を殺戮し、(まつろ)はぬものを(きた)し平げて、山川を堺ひ、(くに)邑を定め、然して後、橿原の宮復命(かへりごと)まをしき。)
(萬葉集註釋卷第一)
(あめの)()(わけの)(みこと)(=(あめの)()(わしの)(みこと)
伊勢朝臣、後の渡会氏(わたらいうじ)の祖
春日神社(福岡県田川市)
由緒  
 西海豊前国田川郡弓削田の庄、弓削田春日大明神と称え奉る由緒は姓氏録に弓削(ゆげの)(むらじ)左京(さきょう)(てん)(じん)は祖先高魂(たかみ)産霊(むすびの)(みこと)三世孫、(あめ)()鷲翔矢(わしかけやの)(みこと)の子孫と有る。
 豊櫛(とよくし)弓削(ゆげ)高魂産霊(たかみむすびの)(みこと)則ち高皇産霊命三世孫、天日鷲翔矢命御子(みこ)長白羽命(ながしらはのみこと)と共に(あま)(くだ)り座す。〔古き伝に(あめの)磐樟船(いわくすふね)で神天降りと、御社より申酉方、凡そ数十丁に船尾山有り、是即ち神の乗られし磐樟船山と成る古跡也〕
 光仁天皇宝亀六年〔西暦七七五年〕に天日鷲翔矢命より三十一世孫の弓削連豊麿、豊前守に成るや、神代より深き因縁有ると神官官職数多引連れ奈良都春日大社の御分霊を勧請し弓削太神と合わせ奉る成り。
御祭神  
 武甕槌命 布都主命 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命 天津児屋根命 姫大神
春日神社(田川市宮尾町)
絵図:春日神社(田川市)

元伊勢」の地の一つが、京都郡苅田町辺りであり、そこには饒速日命を祭る 白庭神社(御所山古墳) 
 ある。

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