「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 天降(あまふり)神社 = 菟田(うだの)穿(うかちの)(むら)菟田(うだの)(しもつ)(あがた)

※  2020年版 神武東征(全5回シリーズ「肆」)
 (令和三年一月二十八日、豊の国古代史研究会有料配信)

第二次東征
菟田縣の血戦
  七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
  八月、菟田の穿邑(川崎町)に至る。菟田縣
 の血戦に勝つ。
  九月、菟田川の朝原に顕齋をなす。
(日本書紀)
中元寺川・甌穴群

菟田の穿(うかちの)(むら)
川崎町
天然記念物 中元寺川・甌穴

第二次東征
菟田縣の血戦
 遂に菟田(うだの)(しもつ)(あがた)に達す。因りて其の至りましし處を(なづ)けて菟田(うだの)穿(うかちの)(むら)と曰ふ。時に、(みことのり)して日臣命(ひのおみのみこと)()めて曰く、「汝、忠にして(また)勇あり。加へて()(みちびき)の功有り。(ここ)を以ちて、汝が名を改め道臣(みちのおみ)と爲す」とのたまふ。
 秋八月(はつき)甲午(きのえうま)(ついたち)乙未(きのとひつじ)に、天皇(すめらみこと)()(うかし)及び弟猾(おとうかし)()さしむ。
 是の兩人は、菟田(うだの)(あがた)魁帥(ひとごのかみ)也。時に()(うかし)は來たらず、弟猾(おとうかし)は即ち詣い至る。
 因りて軍門を拜みて告げて曰さく、「臣が(このかみ)()(うかし)(さかしまなるわざ)を爲す(かたち)は、天孫(あめみま)到らんとするを聞きて、即ち(いくさ)を起こして襲はんとす。皇師(みいくさ)(いきおひ)を望み見るに、敢へて(あた)るまじきを()ぢて、乃ち(ひそか)に其の兵を伏せて、(かり)新宮(にひみや)を作りて、殿の内に(おし)()きて、(みあえ)を請ふに因りて作難(まちと)らんとす。願はくは、此の(いつはり)を知りて、善く(そな)へ爲したまえ」。
菟田下縣(菟田穿邑)
地図「天降神社(菟田下縣)」

菟田穿邑

 神武天皇軍は、彦山から西に尾根伝いに木城村へ。そこから中元寺川沿いに北上し、菟田穿邑(天降神社)へ。

川崎町史より「天降神社周辺の地図」
第二次東征
菟田穿邑(天降神社)
村名小字調書(川崎町・木城村)
 彦山から八咫烏一族の道案内によって、尾根伝いに菟田穿邑(川崎町)に入る。
 旧木城村に「大王」の字名が遺る。

旧木城村

彦山から

川崎町の神武天皇
天降神社
※ 川崎の語源:高曰﨑早曰川
天降神社 祭神・由緒
第九殿 海若宮主神
第八殿 磐余彦命
第七殿 三毛入野命
第六殿 稷飯命
第五殿 彦五瀬命
第四殿 玉依媛命
第三殿 豊玉媛命
第二殿 彦炎出見尊
第一殿 天降神
天降神の祖父母の子
天降神の第四子 神武天皇
天降神の第三子
天降神の第二子
天降神の第一子
天降神の妻
天降神の母
天降神の父(天孫瓊瓊杵尊御子)
鵜葦草葦不合命
祭 神

天降神社の前を流れている中元寺川に川崎町の天然記念物である甌穴群がある。
 この地が「 菟田の穿邑(うかちのむら)(= 菟田下縣) 」と呼ばれていたと思われる。

<中元寺川・甌穴群(川崎町天然記念物)⇒ 菟田(うだの)穿(うかちの)(むら)

地図「天降神社(川崎町)付近の中元寺川」

以下、2021年12月3日(金)、『新説日本書紀』第9回講座より

 <天降神社の祭神からの系図>

天降神社の祭神による系図

第九殿 海若宮主神 ⇒ 「海若」は、「わたつみ」と読む。

(万葉集の例)
 第三巻 三二七番歌 「海若之 奥尓持行而 雖放 宇礼牟曽此之 将死還生」

 天降神社の祭神「第九殿 海若宮主神」の説明は  こちら からご視聴頂けます。

 <所在地のGoogelマップ>