「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 美奈宜(みなぎ)神社(林田)= この地を蜷城(ひなしろ)という

※ 新説 日本書紀(第20回 神功皇后③) ・・・ YouTube動画は、  こちら です。
 (令和4年7月15日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市nico)より

美奈宜神社由緒
画像「美奈宜神社由緒」
 神功皇后が新羅を討征する時、船の中で大己貴命、素盞鳴尊、事代主命の三神に将軍の治要を祈られ、異賊を討ち平らげ、肥前国杵島郡高橋の津に上陸した時、素盞鳴尊などの神助により、山の中に薬湯を見つけ、軍兵の創傷を治療し疲れを癒したので、皇后は「あな嬉しや」と言ったので、ここを(うれし)()村と呼んだ。
 皇后は凱旋の途中、三神の垂迹の地を定めようと白鷺が降りた所で祈ろうと放つと、下座郡の大沼の竹が生えた所に鷺が宿ったので、皇后は摂政として治世した時にここに宮を作った。
           (綾杉るな)
美奈宜神社由緒
蜷城(ひなしろ)の名の由来

 (むかし)(約1800年前)古処(こしょ)の山から見下ろした里には筑後川が流れ、よく土地の肥えた豊かな村がありました。  
 しかし、古処の山には羽白熊鷲という悪者が住んでいました。時どき山をおりてきて、村人を苦しめました。村人は本当に困りました。  
 神功皇后が九州におみえになったとき悪者退治をお願いしました。  
 皇后さまは神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷にたのんで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにして滅ぼしなさい。」とお告げになりました。
美奈宜神社由緒
美奈宜神社(林田)(2)一夜で蜷が城を作った・羽白熊鷲を挟み打ちか?  

 皇后様は川蜷を呼んでたのみました。一晩のうちに立派な城ができました。羽白熊鷲がせめてきましたが、水攻めにあい、滅ぼされてしまいました。  
 このあと、村は静かな平和な村となりました。神功皇后様は神様をお祭りするお社を建てようと思われ、一羽の白鷺をお放ちになりました。「白鷺の降りた所にお社を建てたいと思います。どうぞその場所をお示しください。」と申されました。
 白鷺は空に舞いあがり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞おりました。
美奈宜神社由緒
 皇后様はそこを白鷺塚と命名されその近くに神様を祭るお社と建てられて、美奈宜神社(蜷城(みなぎ) = 美奈宜)と呼ばれました。また川蜷(カワニナ)が守ってくれた村里をニナシロと呼びました。ニナシロがだんだんなまってヒナシロとなりました。
美奈宜神社由緒
画像「」

<所在地のGoogelマップ>