「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 伊都国の歴史 (令和5年11月26日(日) 第29回古代史講座より
(1)卑弥呼が下賜された銅鏡(内行花文鏡)の出土地の一つ
※
魏志倭人伝に卑弥呼は、魏より銅鏡100枚を賜ったとある。この鏡は、年代的には後漢式鏡(=内行花文鏡)である。
下記の中国製鏡の出土分布図の中で内行花文鏡が福岡県内に多く分布している。その出土地の一つが、汐井掛遺跡であり伊都国の地になる。ここより少し東に位置する天照神社の近くからも「長宜 子
孫 」の句が入った内行花文鏡が出土している。
内行花文鏡(Ⓒ福智町)
※
和同開珎の歴史は、『日本書紀』の時代にあるべき記事が『続日本紀』の中に移されている。それを古代の暦を研究して修正した。
(修正後の年次)
607年
627年
646年
〃
〃
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673年
〃
(日付・干支)
12月20日(庚子)
3月 2日(乙酉)
5月11日(壬寅)
7月26日(丙辰)
8月10日(己巳)
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8月 2日(乙酉)
閏11月19日(庚子)
(記事内容の要約)
始めて鋳銭司とその長官を置く
鋳銭司を任命
始めて銀銭を発行
近江国に銅銭を作らせる
始めて銅銭を発行
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銀銭を廃して銅銭に一本化
鋳銭司を追加設置
(現行史料の年次)
699年
694年
708年
〃
〃
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709年
735年
修正した年次の607年は、『隋書』俀国伝にある「大業三年、その王の阿毎多利思比孤(日出處天子)が遣使を以て朝貢。」の年に当る。
和同開珎については、この年に「始めて鋳銭司とその長官を置く」となる。(倭国本朝)
現行の和銅元年(708年)とされている記事が、乙巳の変(645年)の翌年(646年)に「始めて銀銭を発行」となる。(倭国東朝・天智朝)
現行の年次の日付干支と修正後の年次に日付干支が、ピッタリ一致する。さらに672年の壬申の乱直後にも和同開珎の記事あり、阿毎多利思比孤、天智天皇、天武天皇も和同開珎に関わっている(勅を出している)事がわかる。
古和同
新和同
(銀銭)
※
上記に載せている「古和同開珎」は、隋の時代に作られている。「新和同開珎」の字体と比べると、特に「開」の字体が明らかに異なる。「門がまえ」の部分が開いている。
「古和同開珎」の「門がまえ」の部分は、明らかに閉じている。
伝世品ではない和同開珎が、墳墓より出土している。その遺跡が、汐井掛遺跡である。
※
汐井掛第5墳墓から出土した和同開珎の銅銭は、「古和同開珎」である。「M5-2」の「開」の字体の「門がまえ」が閉じている。
古和同開珎の銀銭は存在するが、今までに銅銭は見つかっていない。その古和同開珎の銅銭が汐井掛遺跡から見つかった。和同開珎が、墳墓から出土したという事は、福岡県内で流通していた事になる。
*.九州歴史資料館(福岡県小郡市)展示物
※
下記は、汐井掛遺跡の発掘報告書の地図である。その地図内に都地遺跡がある。ここは、『和名鈔』鞍手郡内にある十市郷であり、十市物部がいた土地でもある。竹原古墳の北に位置する。
この遺跡は、物部氏の墳墓である。その墳墓の中から日出處天子(多利思比孤)が勅を下して作らせた和同開珎(古和同)の銅銭が出土した。日本全国で唯一の古和同開珎の銅銭である。
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『鞍手郡誌』の地図上で、汐井掛遺跡の位置を確認すると山口川沿いの「沼口」辺りになる。この発掘地図の場所は、九州縦貫自動車の宮若ICの建設工事時に発見された遺跡である。地図の発掘された場所の形がインターチェンジの形になっている。
<所在地のGoogelマップ>