「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 草香江 = 草香津(くさかのつ):神武第一次東征時、長髄彦に敗れて引きあげてきた場所

  神武天皇の第一次東征時、長髄彦(ながすねひこ)軍のと戦いで敗れて引きあげた地。

■ 『日本書紀 神武紀 戊午年の夏四月』

(かへ)りて 草香津(くさかのつ) に至りて、盾を()てて雄誥(をたけび)したまふ。

<草香江=草香之津>

「絵図」

 

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 従来説のように、九州から出て大阪の難波に上陸して敗戦したとすると、その後の神武には帰還する場所が無く、軍備も再編成する機会がない。
 それなのに、兵を補充できなかったはずの神武軍は、後段において敵の大軍と堂々と会戦さえしているのである。矛盾というより他はない。いわゆる奈良県「大和の国」に神武は断じて来ていない。

 したがって、「乃ち軍を引きて還る。虜も亦敢て逼まらず。却りて草香之津に至り、盾を植ゑて雄誥爲す。因りて改め其の津を號けて盾津と曰ふ。」は、リアルな記述であり、この「草香之津」は、福岡市住吉神社に伝わる古図に鎌倉期まで「草香江」のあった ことが示してあり、そこを指していよう。
 神武は正しく「草香之津」に「軍を引きて還った」のである。

 「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の115年三月長髄彦と交戦し敗れる。兄の五瀬命が矢にあたり負傷し、博多湾の草香津へ帰還する。

 

 <所在地マップ>

「地図(福岡市 大濠公園近く)」