「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 御勢(みせ)大霊石(たいれいせき)神社 = 豊国の仲哀天皇、崩御の伝承地

 新説 日本(やまとの)書紀(ふみ) 第19回(9月29日)神功皇后③『洞の海から岡の海へ進軍 羽白熊鷲を甘木に破る』の
 記事より引用

 この戦いの直前に豊前の仲哀が熊鷲側の矢に当って死ぬ。小郡市大保に鎮座する御勢(みせ)大霊石(たいれいせき)神社の地だ。
 福岡県神社誌によれば、ここに陣を置いた仲哀は「前線を巡り、黄昏時(たそがれどき)に御帰還の途中、敵の流矢に当
たり、看病空しく崩御した」とある。
 神功は仲哀の(ひつぎ)を負わせ橿日宮に帰り、棺を立てて軍議を開いたと云う伝承が香椎宮(福岡市東区)に
残る「棺掛(かんかけの)(しい)」である。
 その伝承こそ、 負立八幡 橿日宮と考える根拠である。

 新説 日本書紀(第20回 神功皇后③) ・・・ YouTube動画は、  こちら です。
 (令和4年7月15日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市nico)より

縣社  御勢大靈石神社  大字大保龍頭(三井郡三國村)
祭神
 足仲彥天皇、天照大神、八幡大神、吉富大神、
 春日大神
由緒
 神功皇后二年創立、社記に曰く天皇筑前國橿日 宮にて崩ましぬ皇后姑く男貌を假り石を以て御形代とし之を奉し三韓を征し給ふに三韓不日に服す御凱陣の後大法の鄕に宮柱太敷立て此石を祭り給ひ御勢大靈石神社と祟らる社前に御劍御衣を納め給ふこれを御本體所と稱す勢は夫にて皇后よりの尊親の稱御魂代の石なればなり、欽明天皇、天武天皇、宇多天皇、鳥羽天皇、高倉院の御宇再興、文明二年領主筑前興門再建天正十四年兵火に罹て社殿焼失す同十七年假殿造立天和二年舊領主有馬伊豫守豐範正殿拜殿再建其後造營材木は舊久留米藩より雜費は御井御原兩郡割符を以て仕來候、式內小社、明治六年三月十四日鄕社に定められ。明治二十九年七月十七日縣社に列せらる。  
 尙社說に述ぶる所次の如し、
 亦傳說に曰く、仲哀帝熊襲親征に當り、橿日の
縣社  御勢大靈石神社  大字大保龍頭(三井郡三國村) (つづき)
本陣より此地に軍を進め給ひ、寶滿川と垢離川の合流地大保が、白洲にして靑淨の地なれば、先づ天神地祇を祀り假陣所となし軍を督し給ふ。一日近臣を從へ志氣を鼓舞せんため、前線を廻り給ひ、黄昏時に及び御歸還の途敵の流矢に中り給ふ、近臣等驚き假宮に御伴し御看護申上たるも日ならず崩御ましました時恰も激戦中にて志氣の沮喪を畏れ、深く秘して假に御殯葬申上げたり。(今の御本體所)戰一段落に及び軍を纏め、御崩御を布告し御靈柩を橿日に遷し奉りぬ。皇后御凱陣後天皇の御形代の石を魂代とし、甲冑御衣を納め三韓鎭撫神として祀り給ひぬ。(福岡県神社誌)
画像「御勢大靈石神社」
画像「御勢大靈石神社」
由来
 神功皇后二年創建。伝説によると、第十四代仲哀天皇は熊襲征伐の折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御され、神功皇后は秘して御殯葬申し上げました。
 その後、三韓征伐に於いて天皇の御魂代の霊石を軍船に積み戦勝凱旋されました。
 その御魂代である霊石を殯葬の地である当地に祀られ、御勢大霊石と崇められました。神功皇后は石に天皇の御魂を鎮め、懐に入れて戦い、再びこの大保にやって来て、天皇の剣や甲冑、衣裳、荒魂を鎮めた石を納めた場所とのことです。
 社名にある「御勢」の「()」とは「()」の意味で皇后が天皇のことを「せの君」と呼んでいたことが由来だと言われています。
              (福岡の杜)
御勢大霊石神社 (福岡県小郡市大保(おおほ)

 

画像「御勢大靈石神社」
画像「御勢大靈石神社」
画像「御勢大靈石神社」
画像「御勢大靈石神社」
棺掛(かんかけの)(しい)
 仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給ひ 神功皇后は天皇の喪を秘し 天皇の御棺をこの椎木に立て掛けられ 恰も天皇親臨の御前会議を開かれた この時御棺より薫香漂ひたるにより 香椎(かしい)の名起るとの地名伝説もあり
画像「御勢大靈石神社」
香椎宮 (福岡市東区)

 

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