「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 2020年版 神武東征(全7回シリーズ「壱」、「参」)
聖蹟推考地にある菟狭(大分県宇佐郡)の顕彰碑は、現在の宇佐八幡宮の参道の傍らに建てられている。また、聖蹟にある崗水門(福岡県遠賀郡蘆屋町)は、神武天皇社に建てられている。
以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より
ニギハヤヒ直系の王族の大和東征譚(銅鐸文化圏侵入譚)と考えられる部分、すなわち、安芸国・吉備国・浪速国の記事を削除し、宇佐に至る記事を第二次東征(後述)の冒頭部として後に回すと、神武は、最初に岡水門(筑紫国とあるが実は豊国であろう-後述)に至った。
そこには、岡湊神社(芦屋町船堂町一二-四八)が鎮座する。そこから徒歩二十五分のところ、航空自衛隊芦屋基地の入り口附近に「神武天皇社」があり、いずれにしろ、芦屋に「岡田の宮」が存在したようだ。
神武天皇の由緒には、記紀・旧事本紀が引かれ、さらにその地に「芦屋浜の内、砂中より湧出る泉あり、里民呼て御手水池と云ふ、宮域を相去ること四丁ばかり西にあたれり、(中略)
是往古神武天皇東征乃御時此水にて盥洗し給ひ、此所より宗像三神を遥拝し給ふ。」とある。
御手水池は後に「仲哀天皇神功皇后も先例に従ひ給ひ。」とあるが、現在、自衛隊基地内にあり、池のその跡も分からない(明治期の地図には確認される)。
※ 磐余彦尊(神武天皇)の第一次東征で岡水門に至り軍備を整えたは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の
114年 十一月です。
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