「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※
江田船山古墳の主(YouTube:福永晋三先生の2015年和水町講演会より)
江田船山古墳 の主 6 ・・・ 倭五王は、律令制を有して、裁判を行っていた
6世紀前半 ・・・ 岩戸山古墳(磐井陵)で裁判が行われていた
東北の角に当たりて一つの別区あり、号けて 街頭 と曰ふ。(『風土記』筑後の國 逸文 磐井の墓)
※ 律令制 裁判の跡(古田説)
玉垂宮 縁起の中の山陵が岩戸山、山上の武人像が磐井
*. 倭五王 武の後が、倭国王 哲(筑紫君磐井)である。
『筑後國 風土記』 「磐井の墓」
筑後國風土記に曰はく、上妻の縣、縣の南二里に、筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六丈、墓田は南北各六十丈、東西各四十丈、石人、石盾各六十枚、交陳りて行を成し、四面に周匝れり。東北の角に當りて、一つの別區あり。
號けて衙頭といふ。 衙頭は政所なり。 その中に、一つの石人あり、縦容として地に立てり。號けて解部といふ。 (後略)
上紀の『筑後國風土記』逸文によれば、筑紫君磐井は、豊前国上膳県に逃げて亡くなったと書かれている。下記の地図「北部九州の古代豪族分布」で位置関係を示す。
筑紫君磐井が逃げた豊前国上膳県にある求菩堤山の縁起には、継体天皇の記録が残されている。
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