「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 倭国大乱と卑弥呼
(平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より
● 卑弥呼の墓が、ほぼ最後の殉葬墓であり、以後の古墳には埴輪が立てられた
垂仁天皇が、弟の倭彦命の陵以降は、「殉葬を止めよ」と命じると日本書紀にある。また、魏志倭人伝の
卑弥呼の墓には、「殉葬する者奴婢百余人なり」とある。
仁天皇紀と魏志倭人伝が、時代も場所も一致している訳である。
野見宿祢という大相撲の起源の人物が、良策を思いつく。出雲国は、飯塚市の出雲交差点のある周辺で、
土部(はじべ)とある場所が、桂川町土師である。そこの人を百人を呼び寄せて、人・馬やいろいろな物の
形の土物(はに)を造って、天皇に献上した。
陵には、生きた人に換えて土物が立てられるように変わった。
野見宿祢は、陶器を造る土地を与えられ、土部臣(はじのおみ)といわれるようになったのは、飯塚市出雲
交差点周辺(出雲国)の桂川町土師に起きた話のハズである。
垂仁天皇紀の倭彦命の墓と同じように、卑弥呼の墓がほぼ最後の殉葬である。したがって、以後の古墳には、
全部埴輪が立てられた訳である。
古墳時代の後期になるが、飯塚の小正西古墳からちゃんと埴輪が出土している。
飯塚市小正西古墳(古墳時代後期)から出土した巫女形埴輪(右)と馬形埴輪
<飯塚市歴史資料館所蔵>
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