「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 土師 = 出雲国(飯塚市出雲交差点周辺)の土部(はじべ)

※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

● 卑弥呼の墓が、ほぼ最後の殉葬墓であり、以後の古墳には埴輪が立てられた

 『垂仁紀』の記事がこれに該当することは明らかである。
 『魏志倭人伝』に卑弥呼の墓が記され、「殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。
 239年、天皇の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が死んだ。
 この時、「近習の者を集め、すべて生きたまま陵の周囲に埋めて立てた」とある。
 日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声をあげて泣いた。ついに死ぬと、遺体が腐り、犬や烏が集まって遺体を食べた。
 天皇は、これを悲しみ、以後殉葬を止めよと言った。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 垂仁天皇が、弟の倭彦命の陵以降は、「殉葬を止めよ」と命じると日本書紀にある。また、魏志倭人伝の
卑弥呼の墓には、「殉葬する者奴婢百余人なり」とある。
 仁天皇紀と魏志倭人伝が、時代も場所も一致している訳である。

※桂川町土師の故事
 241年、皇后日葉酢(ひばす)媛命(ひめのみこと)が死んだ。
 天皇は殉葬を止めようとして群臣に相談する。野見宿祢が良策を思いつく。
 彼は使者を派遣し、出雲国の土部(はじべ)百人を呼び寄せた。
 自ら指揮して、粘土を取って人・馬やいろいろな物の形を造って、天皇に献上して申し上げた。
 「今後、この土物(はに)を生きた人に換えて(みささぎ)に立て、後の世のしきたりとなさいませ」。
 天皇は喜び、「以後、陵墓に必ずこの土物を立て、人を傷つけてはならない」と命じた。野見宿祢に陶器を造る土地を与え、土部臣(はじのおみ)といった。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 野見宿祢という大相撲の起源の人物が、良策を思いつく。出雲国は、飯塚市の出雲交差点のある周辺で、
土部(はじべ)とある場所が、桂川町土師である。そこの人を百人を呼び寄せて、人・馬やいろいろな物の
形の土物(はに)を造って、天皇に献上した。

 陵には、生きた人に換えて土物が立てられるように変わった。

 野見宿祢は、陶器を造る土地を与えられ、土部臣(はじのおみ)といわれるようになったのは、飯塚市出雲
交差点周辺(出雲国)の桂川町土師に起きた話のハズである。

 垂仁天皇紀の倭彦命の墓と同じように、卑弥呼の墓がほぼ最後の殉葬である。したがって、以後の古墳には、
全部埴輪が立てられた訳である。

 古墳時代の後期になるが、飯塚の小正西古墳からちゃんと埴輪が出土している。

「写真」
「写真」

飯塚市小正西古墳(古墳時代後期)から出土した巫女形埴輪(右)と馬形埴輪
<飯塚市歴史資料館所蔵>

 

<所在地のGoogelマップ>