「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 平城京の所在地 = 桂川町土師三区、中心は長明寺

※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
 (令和二年霜月二三日収録、豊の国古代史研究会有料配信)より

平城京の所在地については、私の仲間である桜井貴子さんが、『続日本紀』の記事から取り出した。

③ 平城京の所在地
 十一月七日、菅原地区の地民九十餘家
を遷し、布穀を給う。
 十二月九日、平城の地を鎮祭す。
 遠江介従五位下土師宿祢古人、散位外
従五位下土師宿祢道長等一十五人言す。
(中略)望み請ふらくは、居地の名に因
り、土師を改めて菅原の姓と為さん
と。
勅、請に依りて之を許す。

 平城京は、土師氏の居地である菅原の地に建
造した。
 飯塚辺りで土師のつく地名が桂川に多数存在
するが、そのいずれかが候補地である可能性が
高い。

 

桂川町の土師三区が、一番中心の宮殿跡ではないかとした時に、そこに長明寺というお寺があった。

平城京はどこにあったか
上空からの長明寺
   ③ 平城宮のあった辺り
「上空からの写真」

 

 桜井さんが言う事には、771年の鶴見火山伽藍岳の噴火によって、当時の平城京(宮)には噴石(隕石ではなく火山かた飛んできた)が、京師の宮殿の屋根に落ちた。
 その事が、続日本紀に書かれているが、奈良県では一切当てはまらない。続日本紀に書かれている細かな記録を追いかけ追究して、我々は平城京が桂川町にあったと言っている。

京師(=桂川町)への噴石の落下

噴石の落下は宝亀2年(771)の鶴見火山伽藍岳の噴火による。

 宝亀二年五月二十三日、豊後國速見郡教見郷、山崩れ潤填し、水為に流れず
十餘日を積みて、忽ち決し百姓七人を漂没す埋めらるる家四十三区あり。
其の調庸を免じ、之に賑給を加ふ

・宝亀二年十一月、辛亥(29)、星有り、西南に隕つ。その声雷の如し。

・宝亀三年六月、戊辰(19)、往々京師に隕石あり。其の大きさ柚の実の如し。
 数日にして止む。

・宝亀三年六月十二月、己未(13)、星隕ること雨の如し。

・宝亀四年五月、辛丑(27)、星有りて南北に隕つる各一つ。其の大きさ盆
 (瓦)の如し。

・宝亀七年(776)二月、是夜、流星有り。其の大きさ盆の如し。

・宝亀七年九月、是月、毎夜、瓦石及び塊自ら内堅の曹司及び京中往々屋上に
 落つ
。明けて之を視れば、其の物あり。
二十餘日を経て乃ち止む。

 長明寺縁起 = 神功皇后(天皇)の伝承が書かれている

※ 新説 日本書紀(第20回 神功皇后③)
 (令和4年7月15日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市nico)より

長明寺縁起

画像「長明寺縁起」
『嘉穂郡誌』長明寺
由 緒
 開基祐西は本願寺第八代蓮如上人弟子なり、明應八年御下賜の御染筆六字尊號あり、又上人の葬儀に参列し分與を受けし上人の御舎利あり。
          (嘉穂郡寺院明細帳)
 長明寺は浦田にあり、遍照山攝取院と號す眞宗西派本山京都本願寺末也。((初めは西京佛照寺に属せしと云ふ) 文明八年丙申祐西と云僧開基す、正徳四年寺號木佛を許さる。
            (筑前續風土記)
長明寺の由來
 抑筑之前州穂波郡土師村遍照山長明寺開基祐西は、地神第一天照大神宮第二の皇子天穂日命の苗裔也、此天穂日命は神勅により出雲の國司となり下り給ひ、子々孫々當國の司たり、十四世の孫野見宿禰まで相續して彼國に居れり、
(中畧)
『嘉穂郡誌』長明寺
 會孫土師の連淸氏は人皇十五代の帝神功皇后に仕へて、三韓征伐の時にも隨ひ奉り、彼地にて數度の軍功ありければ、歸朝の後穂波郡大分村にて諸軍勢を分ち國々に歸し給ふに、淸氏が軍功を賞し給ひ、弟淸友を京都に供奉せしめ給ひ、淸氏には八千町の地を給ひ、此國に居て勞を休んずべしと勅を蒙り、帝に別れ奉り、後穂波郡を彼方此方と居住の地を撰り、此里勝れて氣に恊ひ、面白きとて居室を構へ、妻子を呼迎えて武威日々に榮へ、仁徳夜々に濕ひければ、里人恭ひ尊ひ土師殿と稱し、後は土師の連と云ふを以て土師村を里の名とし、懐きかしつきれば、淸氏も悅び土師の姓則ち里を保つしるしなればとて、氏を保里と定め、保里の連土師淸氏とぞ名乗けり。
(中略)

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