「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 稲荷神社(玉穂山に鎮座)= 継体天皇が正和元年(526年)に遷都した磐余玉穂宮跡

 邪馬台(やまと)国(豊国)は、三角縁神獣鏡圏の国から出た神功天皇に滅ぼされた。神功天皇は豊国を治め、紀武内宿祢(藤大臣)は筑紫国 水沼に皇都 を建て、筑紫王朝( 紀氏王権 =倭の五王とその前後)を創始した。ここに「豊国王朝(兄国)」と「筑紫国王朝(弟国)」とが並立した。
 武の次の「」が筑紫君磐井に当たるようである。豊国の  継体天皇 と争って敗れ、王権は再び豊国に戻る。

 壬申の乱の舞台 糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった
  (平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より

 大友金村の業績 

 仁賢天皇十一年(四九八年)、仁賢天皇の崩御後に大臣・平群真鳥、(しび)父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。
 武烈天皇八年(五〇六年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。

「画像:大伴金村」

大伴金村 『前賢故実』より

 大伴金村は、実在の人物である。当然、豊前に居ました。上記の通説では、越前国からとあるが、これが間違っている。継体天皇も近江の出身者である。この近江も古遠賀湾のある豊前である。
 『日本書紀』継体紀に近江国に生まれると記してある。

 天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井中、此云那、納以爲妃。遂天皇

 欽明天皇の和風諡号を志帰嶋天皇斯帰斯麻天皇とも云う。「しきしまのやまと」の「しきしま」である。この「しきしま」という地名が、福智町金田にある敷島交差点である。
 欽明天皇の宮がこの付近の何処かにあるはずという事で探しに行った。敷島交差点の所は、その西側の山の下でかつて、海が入り込んでいれば島の地形である。その島の北側にあたる場所に松崎神社、その南に稲荷神社があり、その稲荷神社の神幸祭でやって来る御旅所が、ここ敷島交差点の所である事がわかったので稲荷神社を訪ねた。
 すると稲荷神社の由緒書きに、「鎮座地を玉穂山 と称する・・・」とある。この稲荷神社の向かい側、鳥居越しの真正面に倭三山( 香春岳 )が見えている。そして、倭三山までの途中までには、 白鬚神社 もある。

 継体天皇の磐余玉穂宮 

「由緒」

<稲荷神社>

「写真」

福智町金田405番地、玉穂山 に鎮座

稲荷神社の向かい側、倭三山(香春岳)を望む

「写真」

 <継体天皇の宮>

 五〇七年二月  樟葉(くすば)宮で即位
 五一一年十月  筒城(つつき)宮に遷す。
 五一八年三月  弟国(おとくに)宮に遷す。
 五二六年九月  磐余(いわれの)玉穂(たまほ)宮に遷す。   ⇒ この年は、『二中歴』正和元年に当る。

 ※

 右叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは最後の5年のみである。

 継体天皇が、最後に都を遷したのが、磐余玉穂宮である。稲荷神社が鎮座している山が玉穂山である。
この稲荷神社こそが、継体天皇の宮の跡であろう。
 敷島の地名からここは、欽明天皇の磯城金刺宮の跡かも知れない。継体天皇の宮と同じ場所だったかも知れない。

 <ご参考>

 『日本書紀』 継体天皇二十年の記事、遷りて磐余の玉穂に都す。

 廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗

 『古事記』 継体天皇の玉穂宮の記事

 袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也

 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
 (平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 国府推定地(草場)にある官幣大社である豊日別宮( 草場神社 )が、樟葉宮(くすばのみや)と思われる。継体天皇はここで即位したらしい。

 <所在地のGoogelマップ>

*.鳥居前より香春岳(倭三山)を望む