「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 福智町金田(かなだ) ⇒「きだ(城田)」と読める

以下、『新説日本書紀(第10回、2021年12月17日)』講座動画の画像より

 『神武紀』に書かれている「城田」の地は、『倭名類聚抄』(平安時代)にある「城田郷」であり、その地名が、鎌倉時代には「金田荘」に変わっている。動画は こちら からご視聴頂けます。

※『日本書紀 神武紀』に書かれている「城田」の地 ・・・→ 福智町金田

第二次神武東征 
倭奴国との最終決戦
 (あるひと)の曰く、「天皇(むかし) 嚴瓮(いつへ)(おもの)(たてまつ)りたまひて、軍を出だして西征したまふ。是の時に、磯城(しき)の八十梟帥彼處(そこ)屯聚(いは)み居たり。果して天皇と大きに戰ふ。遂に皇師(ため)に滅さる。故、名づけて磐余(いはれ)と曰ふ。又皇師の立ち(たけ)びし處、是を猛田(たけだ)と謂ふ。()を作りし處を、號けて城田(きた)と曰ふ。又、賊衆(あたども)戰死して()せる(かばね)(ただむき)()きし處を呼びて頬枕田(つらまきだ)と爲ふ。天皇、前の年の秋九月を以て、(ひそか)天香山埴土(はにつち)を取り、以て八十平瓮(やそひらか )を造りて、躬自(みづか)齋戒(ものいみ)して諸神を祭りたまふ。遂に區宇(あめのした)を安定するを得たまふ。故、土を取りし處を號けて、埴安(はにやす)と曰ふ。 
「地図(福智町金田⇒城田郷)」

『倭名類聚抄』田川郡(4つの郷):河原郷、雉怡郷、位登郷、城田(きた)

『田川郡誌』宮床村、糸田、大熊、南木、神崎、金田、伊方、弁城、上野、赤池       市津、椎木田、草場の十三ケ村

 日本書紀に書かれている「城田(きた)」の地名と同じ地名が、平安時代中期に源順が編纂した辞書である『和名類聚抄』の中に田川郡があり、そこの一つに城田郷がある。
 その場所は何処か? googleマップで示す通り福智町の金田周辺である。ここは、『田川郡誌』に書かれた13ヶ村のひとつ金田村である。

「地図(福智町金田⇒城田郷)」

城田(きた)(平安時代)→ 金田荘(鎌倉時代)

 平安時代の『和名類聚抄』には、城田であった土地が、鎌倉時代には金田に変わったという仮説である。
 この「金田荘」の読みは、「田(た)」である。というのは、香春町を流れている金辺川は、「きべ川」という。だから、「金田荘」は、本来「きた荘」であろう。
 福智町金田(かなだ)が、神武紀にある「城田(きた)」であると気が付いた。