「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 吉野ケ里遺跡 = お佐嘉の大室屋(神武東征前史)

 鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦でお佐賀の大室屋の陥落は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の後83年で、その土地は、吉野ケ里遺跡である。

■ 『日本書紀 神武紀 戊午の年 冬十月』の歌謡九

忍坂(おさか) の 大室屋(おおむろや)に 人多(ひとさは)に 入り()りとも 人多に ()入り居をりとも みつみつし  
来目(くめ)子等(こら)が (くぶ)(つつ)い 石椎い 持ち 撃ちてし止まむ

*.神武天皇の父、(ひこ)波瀲(なぎさ)(たけ)鸕鶿()草葺(がやふき)不合(あえずの)(みこと)が、吉野ケ里を攻め滅ぼした時の歌。

忍坂の大室屋 ⇒ お佐嘉の大室屋 = 吉野ケ里遺跡 

上記の
お佐嘉の大室屋に 人多に入り居りとも 人多に来入り居りとも みつみつし来目の子らが 頭椎い石椎いもち撃ちてし止まむ  (神武前紀戊午年冬十月)
からは、『肥前国風土記「佐嘉郡」』の記事との深い関連を見出し、吉野ヶ里遺跡の前期環濠集落に起きた紀元一世紀頃の天神族荒神族の興亡の跡を抽出した。  <「 天満倭 」考より引用> 
  

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 吉野ヶ里遺跡からは、一九九八年十一月に九州初の銅鐸が出土した。山陰で見つかった銅鐸と同じで、鳥栖市の安永田遺跡の鋳型とも同類であった。出雲系の人々の居住した遺跡だったのである。
 また、「肥前国風土記」の「神崎の郡」の記録には、「昔荒ぶる神があって往来の人が多く殺害された。
景行天皇が巡守して、この神が和平(やはら)ぎ、(わざはひ)がなくなった。」とあるが、ここにこそ、弥生時代の倭奴国の領土拡張戦争すなわち天神族対荒神族の激戦が隠されていたことに思い至ったのである。
 吉野ヶ里遺跡は「佐賀県神崎」に厳然とある。(二〇〇三年九月十五日『社会運動』二八二号初出)
 右のように神武紀に一連の歌謡を神武紀から分離しようと努めてきた。そうして、神武紀の本質に迫ろうとしたが、再分析の結果は、次のようになった。( 歌謡の新解釈 

 神武は天神族の分家の一員として、倭奴国本国より「西の偏」に生を享けた。神武紀冒頭の書き出しが正しければ、東征謀議(西暦一一四年)の時が四十五歳であるから西暦七〇年(庚午)生まれとなる。日本書紀紀年では垂仁天皇の没年に当る。
 成長して十三歳の年(西暦八二年)十二月に「お佐賀の大室屋」攻撃が開始される。父、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の佐賀平野攻略戦であった。
 半年後の八三年五月に「お佐賀の大室屋」は陥落する。この時の主力軍こそが來目部であったと思われる。
 佐賀平野を一定程度攻略した後、西暦八四年、十五歳で神武は「太子」となったことになる。「西の偏」の分王家は、倭奴国本国に勝るとも劣らぬ強国となっていったようだ。神武東征前後の歴史である。

<神武東征前史: 日向  ⇒ 筑紫(お佐嘉の大室屋)>

神武東征前史 (日向 → 筑紫
 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも
人多に 来入り居りとも みつみつし 来目の
子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ
 お佐嘉なる 夷を一人 百な人 人は云へ
ども 抵抗もせず
写真「吉野ヶ里遺跡」

<吉野ケ里遺跡の銅鐸>

吉野ヶ里遺跡の銅鐸
写真「吉野ヶ里遺跡」
写真「吉野ヶ里遺跡の銅鐸」

*.銅鐸文化圏(素戔鳥尊の国)については、 邪馬台国年表 (出雲王朝の記録か)に記載しています。

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