「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※
福永晋三先生の『魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考』の資料 「 魏志倭人伝と記紀の史実 」の6ページに「一大国は壱岐であり、呉音でイチダイ国である。魏使が寄港したのは、原の辻遺跡で船着場の跡も確認されている。」の記述がありますが、下記の翰苑の発見以降訂正されています。
翰苑に書かれている「魏略」の國名が、『 帯方郡から倭・女王國に 』 の示す通り、「一支國」となっている。
* 『魏志倭人伝 紹興本 』は、「對馬國」、「一大國」と記述されているが、「一大國」は誤植である。
※ 魏志倭人伝を解く!
宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ(平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演より
神功天皇の軍に皆殺しにあったらしい。
※ 邪馬台国研究 戦後の諸問題
(令和二年霜月二〇日収録、第18回 古代史講座、主催:田川広域観光協会、撮影・編集:豊の国古代史研究会)より
一支國(壱岐島)の東側に律令時代に、壱岐郡田河郷があった。その田河郷の中にある深江栄触・深江鶴亀触という地域から出土した遺跡が、原の辻遺跡である。
また、田河郷の諸吉仲触という所に高御祖神社があり、その神社に對馬國の高御魂神社にも祭られていた高(鷹)皇産靈尊が祭られている。
魏の使者は、壱岐郡田河郷から福岡県田川郡にやってきたことになるということが、神の世界で解る。考古学では絶対に語らないという事が神の世界を通じれば、見えてくる。
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