「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
倭国(豊国)北伐考
・倭国北伐考(スメラミコトの豊国征服譚)(平成28年3月21日、久留米大学)講演
・倭国(豊国)北伐考(平成28年7月31日、於 ももち文化センター)講演
[氣長足姫尊の豊国北伐]
■ 気比の宮 ~ 穴門豊浦 ~ 御所ヶ谷(忍熊王を殲滅)
*.三角縁神獣鏡圏を形成する強国=東鯷国が、征西を開始。 ⇒ ( 神功天皇の征西 )
「吉備の鬼の城、温羅」は、桃太郎伝説の話である。「穴門豊浦宮」は、まだ確定できないが、現時点では
赤間神宮としている。
「岡県主の熊鰐」の子孫の方が、岡垣町西円寺にいらっしゃいます。続いて、御所ヶ谷に拠る忍熊王を倒して
「草薙の劔」を手に入れ、豊国(倭)の王者になった。
※ 神功皇后は、穴門豊浦宮から 洞海湾(洞の海) を通過し遠賀湾へ至る。その途中に『仲哀天皇紀』に「作魚沼・
鳥池」と書かれている遺構がある。北九州市東若松区払川のある 魚鳥池跡/魚鳥池神社 である。
神功皇后は敦賀の 気比の宮 を出て、邪馬台国の王である忍熊王(先代旧事本紀に「熊坂王」、倭建命の孫に
当たる)を入水自殺に追い込む。
彼の屍を探したのは「草薙の劔」を入手するためであった。( 神功天皇の調略/忍熊王の逃避行 )
■ 筑紫末羅県の勝門比売 ~ 三六九年、筑後遷都
※ 『魏志倭人伝を解く!』(平成28年8月7日)講演内容に更新
*.筑紫末羅県ですが、『古事記』、『日本書紀』が書かれた時代は、律令制の時代でその頃には、
「筑紫国」と「肥前国」は分かれている。
『古事記』には、筑紫末羅県と記されており、肥前の松浦ではなく、宗像市の地が、筑紫の末羅で
ある。
ここは、「天孫降臨」の土地でもあった。
※ 『吉山旧記』 より
*.ここでの「帝」は、神功皇后らしい。神功皇后が、名残惜しんだ。
*.久留米市大善寺玉垂宮の鬼夜(おによ)は、桜桃沈輪が、退治された正月七日に行われる。
*.桜桃沈輪の居城跡(大善寺玉垂宮)の皇都が築かれた。その歌が、万葉集四二六〇番歌である。
■ 神功の征西後、倭五王と継体天皇へ
※ 忍熊王を入水自殺に追い込んだのは、『古事記』では、建振熊の命であったのが、『日本書紀』では、
武内宿禰に替えられている。
したがって、『日本書紀』では「草薙の劔」を手に入れたのは、紀氏王権であると言っている。水沼の
皇都の紀氏王権が、豊国の王者の印(三種の神器)を手に入れて久留米に新しい京(水沼の皇都)を築いた
ことを裏面から証明していた。
ここで、一旦、邪馬台(やまと)国が滅びる。
*. 『宋史』日本國、王年代紀 (王の記録)であるにも関わらず、大臣である紀武内宿禰が登場する。
*.松野連系図は、紀(姫)氏の系図であり、讃・珍・済・興・武と云われる倭五王の系図である。
その讃の前が、縢(とう)とある。
吉山旧記に登場した藤大臣であり、宋史・日本國(王年代紀)の紀武内宿禰である。
*.『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演時に以下に訂正。
※ 紀氏王権は、哲の孫の牛慈の時に「 金刺宮御宇服降為夜須評督」とあり、欽明天皇の時に倭五王の
紀氏王権が位を降りて(降伏)、夜須評督となった。紀氏王権が終わった。
紀氏王権の記録は、『日本書紀』では書かれないが、武内宿禰が景行天皇から雄略天皇の時まで時々、
出てくる。
これは、武内宿禰が三〇七歳も一人で長生きしたのでは無く、これが紀氏王権の記録であった。
■ 儺県(橿日宮)から先に羽白熊鷲を殲滅へ
『日本書紀』を細かく追究したら、伊都県主の五十迹手が帰順しているので、神宮天皇は、古遠賀湾を南に下り、
儺県(なのあがた)の橿日宮に入る。
今の 香椎宮 (橿日宮)も移ってきた先であることが、解りました。『日本書紀』に記された「儺県の橿日宮」は、
飯塚市の「柏の森(かやのもり)」の所です。
「柏の森」は、通常、どのように読みますか? 「かしのもり」の「かし」ですよね。 橿日宮 の跡だったんです。
神功天皇に倒された奴国の都の跡だった。ここが、邪馬台(倭)国の一つの終焉地であった。
神武天皇が片島に上陸して磯城彦を倒した場所であり、ここが奴国であったらしい。その中心が、 曩祖八幡宮 で
あった。そこに橿日宮があったらしい。
だから、「柏の森」が「かやのもり」に読み方を変えられた。「かしわのもり」としか読めない。
勝門比賣を滅ぼす前の神功天皇は、ここ橿日宮から旧夜須町(筑前町)の松峡宮に入り、美奈宜神社や平塚川添
遺跡に拠る羽白熊鷲を殲滅した。
次に熱田( 新北 )津を出航して、今の宗像(福津市)の宮地嶽神社に拠る勝門比賣の討伐に行った。これが
『仲哀記』に記されている「筑紫末羅縣」である。
『草薙の劔』を手に入れた後、豊国を片っ端から倒して行く最終局面が、末羅縣の勝門比賣だった。この土地に
勝浦があり、ここは勝一族の土地である。
神功天皇が水沼に都を建設したので、倒された勝門比賣の一族が、肥前の松浦に遷された。
神功天皇は、最終的に久留米の大善寺玉垂宮に入る。そこの由緒( 吉山旧記 )等を調べて、藤大臣が桜桃沈輪を
滅ぼした「鬼夜」という1月7日に行われる祭りが、歴史事実を反映している事が判った。
その藤大臣が、筑紫を安定されたことがも書かれている。その事を『万葉集』4261番から見出した。
大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 都と成しつ
この歌にあるように、新しく都を建設した「水沼」は何処か?水沼は、旧三潴郡の久留米である。誰が新しい都を
建てたかを調べていった結果が、神功天皇であった。
藤大臣を調べ続けた結果、讃・珍・濟・興・武(=倭五王)の前が、縢(とう)。この人物が時代的に本当に応神
天皇に当たるのであれば、その藤大臣は、『宋史 日本国 王年代紀』に書かれていた「紀武内(宿禰)」である。
倭王讃の父親に当たり、母親が神功天皇になる。これが、日本史の秘密。倭五王の最大の業績は、中国南朝の冊封下に
入ったことである。
だから、『古事記』、『日本書紀』に出てこない。紀氏王権の事が書かれていない。
天皇家は、代々、「天皇」という言葉が示す通り訓読みすれば、「あめきみ=あめし(天氏)」である。その
「天氏」の家系にありながら、阿毎(あめ)多利思比孤は、中国に遣いを出し、兄弟王朝を止めろと言われて止めたから
『日本書紀』のイデオロギーから外れている。
『日本書紀』は独立宣言の書である。だから、卑弥呼も書かれれない。紀氏は、絶対に書かれない。
ところが、東大寺の僧奝然が北宋に献上した『王年代紀』には、王の記録であるはずなのに大臣である「紀竹内
(宿禰)」が書いてある。
これも日本史の秘密であった。当然、紀竹内宿禰一人が、三〇七歳も生きていない。この倭五王の系譜の始まりから
終わりまでが、三〇七年あったかどうか知らないが、二〇〇年くらい存続したであろう。
大事なことは、邪馬台(倭)国(豊国)は、一旦、滅亡している。これが、継体天皇の時に復活する。それが、
日本史の実態である。
だから、天皇家の系譜(豊国の王者の系譜)と倭五王の系譜の年代は、絶対に合わない。『記紀』は、豊国の
王者の記録しか書かれていない。倭五王の事は書いていない。中国南朝に行った事さえ書いていない。
しかし、倭王武の後の倭王哲(磐井)の墓は、ちゃんと残されている。倭五王は、中国南朝の律令制を行っていた
らしい。奈良時代が、最初ではない。
『風土記 筑後の國 逸文 磐井の墓』の記事の所に裁判の跡(別区)があったと記されている。
倭王哲の後、満の次の牛慈の時に欽明天皇に降伏して、夜須の評督となった。(ここで、倭王の王権は終わった。)
継体天皇 の時に豊国が、王権を取り戻す。継体天皇が何らかの手段で「草薙の劔」を手にいれた。牛慈の時に
降伏とあったので禅譲をしたが、欽明天皇の時に「草薙の劔」を戻したから、夜須の評督として命を存えた。
これで「磐井の乱」の持つ意味もハッキリした。継体天皇が豊国の復権を目指した死に物狂いの戦いであった。
それでその武力に勝って、その後は、文化的に「三種の神器」を取り戻して、再び豊国の「あめきみ」の王権を
引き継いだ。
だから、諡が「継体天皇」、豊の国体を継ぐ天皇という意味である。これが、日本史の謎であった。
『日本書紀』は、ギリギリの所で嘘を書いていなかった。倭五王に当たる所の応神天皇から雄略天皇のところに
時々、武内宿禰が三〇七歳も長生きしたように記録している。
長年に渡って、生き続けて色々と進言した記録がある。それが、実は紀氏王権の記録であった。
『日本書紀』は、全面的な嘘は書いていなかった。一割は、残してあった。書かなかったけれども深く読み込ん
だら、「草薙の劔」が行き来していた。
■ 氣長足姫尊の豊国北伐の地
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