「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 和同開珎の謎(その歴史と関わった人物)

 香春岳の銅と皇朝十二銭 & 柿本人麻呂は採銅所に眠る(令和4年1月8日)

 新説日本書紀  飛鳥時代②  日出処天子と蘇我馬子(令和4年12月9日)

 豊国の万葉集⑤  柿本人麻呂①(令和5年1月18日)

 豊国の万葉集⑥  柿本人麻呂②(令和5年2月22日)  より

(1)和同開珎の読み方・意味とその歴史

 「福永晋三説 和同開珎の歴史」(令和5年1月18日 豊国の万葉集⑤ 柿本人麻呂①の抜粋版)の動画は、 こちら からご視聴頂けます。

 和同開珎が作られる前
 第一回遣隋使以前に、隋は開皇九年((五八九年))に南朝の陳を平定し、長い南北の分裂抗争に終止符を打って全国を統一した。旧南朝領域の銅山も入手したのである。この陳平定作戦の総司令官が文帝の次男の晋王楊広であった。楊広は陳平定後、旧南朝領域の統治にあたり、江都(現江蘇省揚州市)を拠点とした。
 開皇一〇年((五九○年))には、文帝は楊広に命じて五ヵ所の鋳銭所を造営させ、また五男の漢王楊諒にも幷州(現山西省を中心とする地域)で、四男の蜀王楊秀にも蜀方面で、それぞれ鋳銭させた。
 こうして徹底した盗鋳銭と悪銭の取締りによって、後漢末以来の良銭と悪銭の二重構造的流通を大きく変えたのである。
『貨幣の中国古代史』(山田勝芳)

 『隋書』俀國傳 によれば、第一回目の遣隋使は、開皇二十年((六〇〇年))である。

 和同開は、「わどうかい」と読む
角川  新字源
角川新字源「璽」
康煕字典


 +


 +

康煕字典「玺」
康煕字典「珎」

 和同開珎の「」の字は、この「」の略字であるが、『康煕字典』の俗に「」は、珍字と書かれているから、通説の学者は「わどうかいちん」と読んでいる。
 だが、「」、「」を縦に置いた略字が「玺(じ)」であり、璽字とある。だから、『康煕字典』が間違っている。だから、福永説では、「わどうかい」と読む。

 和同開珎(わどうかいじ)とは(どのような意味か?)
 天子(政権主権者)が価値の単位を一律に等しくし、それを天下に自らの権威を持って流通させることを意味する。
 即ち、何らかの基準貨幣とそれ自身の通用価値は同等であり(和同)、同等の価値をもつ貨幣として流通する開璽(かいじ))ものである。
『天武紀』十二年条
(4月15日)詔して曰く、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を持ちゐること(なか)れ」
(4月18日)詔して曰く、「銀持ちゐること莫れ」
において、銀は「無文銀銭」のことであり、「銀銭」は「和同開珎」の銀銭(古和同もしくは古和同様)のことであり、「銅銭」は「和同開珎」の銅銭(古和同様で新和同は含まない)。
(添田  馨)

*1

右記の天武十二年((683年))条は、見直しをすると、657年の出来事となる。

 ここでの結論は、本来は『日本書紀』にあるべき「和同開珎」の記事が、『続日本紀』に移されて書かれている可能性がある。

 添田薫氏が作成した現行資料の「7世紀~8世紀半ば」記事の年次を見直した年表である。

見直し後

[607年]

[627年]

[646年]

[   〃    ]

[   〃    ]

[652年]

[654年]

[655年]

[657年]

[   〃    ]

[660年]

[666年]

[673年]

[   〃    ]

[674年]

[678年]

[   〃    ]

[680年]

[   〃    ]

[682年]

[683年]

[690年]

[691年]

[703年](閏4月)

[710年]

[   〃    ]

[711年]

[   〃    ]

[712年]

[   〃    ]

[713年]

[   〃    ]

[758年]

日付(干支)

12月20日(庚子)

  3月  2日(乙酉)

  5月 11日(壬寅)

  7月26日(丙辰)

  8月 10日(己巳)

  4月27日(甲寅)

   1月29日(丙子)

 10月29日(乙丑)

  4月 15日(壬申)

  4月 18日(乙丑)

  2月27日(戊亥)

  3月 13日(丁酉)

  8月  2日(乙酉)

閏11月19日(庚子)

  9月 18日(乙丑)

   1月25日(壬午)

  3月28日(甲申)

10月23日(甲子)

12月20日(庚申)

  2月 11日(甲戌)

  9月20日(甲辰)

  5月 21日(丙申)

  9月22日(庚寅)

  4月 10日(庚午)

   1月 10日(丙寅)

   1月27日(戊寅)

  5月 15日(己未)

 11月  4日(甲戌)

  9月  3日(己巳)

 12月  7日(辛丑)

  3月 19日(壬午)

  3月 19日(壬午)

  8月25日(甲子)

 記事内容(要約)

始めて鋳銭司とその長官を置く

鋳銭司を任命

始めて銀銭を発行

近江国に銅銭を作らせる

始めて銅銭を発行

私鋳銭者を鋳銭司で使役

銀銭、銅銭、銀一両の交換比率を公定

役夫・運脚に銭で稲を購入させる

銅銭の使用を命じ、銀銭の使用を禁じる

銀の使用を続けさせる

銀一両と銅銭の交換比率を公定

周防の銅を長門の鋳銭に使用

銀銭を廃して銅銭に一本化

鋳銭司を追加設置

銀銭の使用禁止

銀銭の私鋳を禁じる

銀銭と銅銭の使用規制を定める

畜銭叙位令・私鋳禁止令

畜銭叙位追加令

始めて催鋳銭司を置く

撰銭禁止令

白ナマリの所有禁止

周辺国に調の銭納を指示

諸国兵衛の資物を銀に換算

太宰府が銅銭を献じる

播磨國が銅銭を献じる

殻と銭の交換率を公定

蓄銭の人等に始めて位を叙す

私鋳者の罪-等を減じる

庸調の銭納価格の公定

郡司の任用に蓄銭を義務化

田の売買での銭換算を定める

藤原仲麻呂(恵美押勝)に貨幣鋳造権

現行資料

   699年

   694年

   708年

     〃

(和銅元年)

     〃

   745年

   721年

   712年

   683年

     〃

*1

   722年

   730年

   709年

   735年

   710年

   709年

     〃

   711年

     〃

   708年

   714年

   716年

   722年

   729年

   710年

     〃

   711年

     〃

   712年

     〃

   713年

     〃

   758年

倭国本朝
阿毎多利思比孤

<乙巳の変
 (645年)

倭国東朝
天智朝

日本国(670年)

<壬申の乱
 (672年)

日本国
天武朝

 『日本書紀暦日原典』を使って、和同開珎に関する記事を抜き出し修正した。その見直し後の年次の最初の年が、607年であった。この年は、『隋書』俀國傳 に出てくる大業三年に当たり、この年は阿毎多利思比孤が、隋に遣いを送った年である。
 699年に書かれている和同開珎に関する「始めて鋳銭司とその長官を置く」という記事が607年になった。

 次が見直し年次の627年(現行史料の年次694年)の「鋳銭司を任命」へとつづく。そして、和銅元年(708年)記事の見直し年次は、645年に起こった乙巳の変の翌646年となった。
 646年に「始めて銀銭を発行」、「近江国に銅銭を作らせる」、「始めて銅銭を発行」とある。中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼした翌年に和同開珎が作られた事になる。

 したがって、この646年以前の607年と627年に「鋳銭司」の事が書かれているという事は、日出處 天子阿毎多利思比孤)の時代にすでに和同開珎が作られていると考えられる。

 このように見直した年次の646年以降の記事を並べると現行史料の年次が、如何にバラバラだったという事が解かる。

 前述で示した(*1)の現行年次「683年」記事にある「銭の使用を命じ、銭の使用を禁じる」は、年次を見直したら657年になり、これは天武天皇の詔勅ではなく、天智天皇の詔勅たったという事になる。

 672年に壬申の乱が起こり、勝利した天武天皇の御世になるが、和同開珎の記事は、色々と続いている。
 その天武朝に当る見直し年次で、682年に「始めて催鋳銭司を置く」となり、これにより和同開珎関係の原因と結果の記事が綺麗に並んだ。

 添田馨氏が、(2012-2013)にすでに下記の内容を述べられていた。

和同開珎が発行されたのは
           和銅元年((708年))ではなく、50年以上古い大化2年((646年)) らしい。

 何故なら、『続日本紀』を中心とした貨幣関連記事は、必ずしも因果関係が整合的ではないからである。

 『続日本紀』の編纂者は過去に発生した一連の出来事をそれと同じ日付(朔)干支の配列を持つ『続日本紀』内の収録年次に一つ一つ貼り付けた? 

逆変換

もとの発生年次

 このような日付(朔)干支の見直し後の事実間配列には、因果関係の逆転箇所は見られなくなっている。

添田馨(2012-2013)

 和同開珎の記事には。「始めて・・・」が、3ヶ所に出てくる。

 

 見直し年次「607年」記事に「始めて鋳銭司とその長官を置く

 ・・・ 阿毎多利思比孤

 

 見直し年次「646年」記事に「始めて銀銭を発行」、「始めて銅銭を発行

 ・・・ 天智天皇

 

 見直し年次「682年」記事に「始めて催鋳銭司を置く

 ・・・ 天武天皇

 したがって、この「始めて・・・」の度毎に貨幣(和同開珎)の形が変わっていく。

 また、日銀金融研の理化学的分析により、和同開珎の金属組成分析から4種類に分類される。

 日銀金融研究所の研究 2
 和同開珎の金属組成分析 

和同の種類

   古和同

   新和同A

   新和同B

   新和同C

金属組成分析の内容

成分組成には純銅に近いものがある。
アンチモンが多い点で、富本銭と共通。

アンチモンを少量含むものは錫が多い。
鉛同位体比は古和同と近似。

アンチモンをほとんど含まない。
錫がやや減少するが、鉛より多い。
鉛同位体比は後期の銭貨と似ている。

銭文から末期の鋳造とみられる。
アンチモンをほとんど含まず、錫も少ない。
鉛の組成比が非常に高い。

新和同の分類模式図

銅ー錫―鉛3元比による
新和同の分類模式図