「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 和同開珎の謎(その歴史と関わった人物)

 香春岳の銅と皇朝十二銭 & 柿本人麻呂は採銅所に眠る(令和4年1月8日)

 新説日本書紀  飛鳥時代②  日出処天子と蘇我馬子(令和4年12月9日)

 豊国の万葉集⑤  柿本人麻呂①(令和5年1月18日)

 豊国の万葉集⑥  柿本人麻呂②(令和5年2月22日)  より

(2)古和同・新和同の謎を解く!

 ①   

  阿毎多利思比孤の詔勅 

 「唐の隷書体の「新和同」より古い「古和同開珎」は、誰が作った?」(新説日本書紀 飛鳥時代② 令和4年12月9日の抜粋版)の動画は、 こちら からご視聴頂けます。

 和同開珎に関する現行史料の年次を見直した結果、一番古い年次は、607年に「① 始めて鋳銭司とその長官を置く」となった。この時に作られた和同開珎が、(1)項で説明した日銀金融研の理化学的分析(金属組成分析)から4種類に分類された「古和同」という事になる。

 古和同開珎の謎
 要約すれば、「和同開珎」とは、「天子が価値の単位を一律に等しくし、貨幣を発行する」との政策標語だったということになる。
 倭国王第一回遣隋使の後に、「隋における貨幣制度改革」を知り得て、わが国で古和同を造る勅命を下したことが推測される。
 日中の正史から見る限り、古和同の鋳銭を命じたのは「日出づる處の天子」しか考えられない。

*1

 この時、古和同(下図右)の「開」字の字体に注目すると、後の新和同(下図左)と比べても「門構え」の上部が空いていないのである。添田馨さんの分析によれば、「門構え」の上部が空いている新和同の字体は、唐の隷書であるそうだ。

*1

 第一回遣隋使の年は、「開皇二十年(600年)」

 古和同開珎の謎

古和同

新和同

絵図「古和同」
写真「古和同」
絵図「新和同」
写真「新和同」

隋の字体

唐の「隷書体」

 私の唱える倭国本朝が絶対王政を敷き、倭国にも隋と同様の貨幣制度を確立しようとしたと考えるとき、日出処天子はどこに「鋳銭司」を置いたか。
 倭国東朝香春岳の地に置いたと考えられる。
(以上は福永の仮説)

 わが国初の貨幣(古和同開珎)は、倭国本朝の天子である日出づる處の天子阿毎多利思比孤)が作らせた。その詔勅を出された。

 ②   

  天智天皇の詔勅 

 「新和同A・B、富本銭は人麻呂が作った⁉ 最古の貨幣は富本銭でなく、古和銅だ⁉」(令和5年2月22日、豊国の万葉集⑥  柿本人麻呂② の抜粋版)の動画は、 こちら からご視聴頂けます。

 現行史料『続日本紀』の「和銅元年(708年)」記事の年次を見直すと「646年」となった。この年は、645年に起こった乙巳の変の翌年になる。この年に「② 始めて銀銭を発行」が出てくる。

 新和同開珎Aの謎
六四五年((皇極四年))
六月十二日、中大兄皇子らが飛鳥板蓋宮大極殿内で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する。
「乙巳の変」(
六四六年
五月十一日((壬寅)) 始めて銀銭を発行。(
七月二十六日((丙辰)) 近江国に銅銭を作らせる。(
月十日((己巳)) 始めて銅銭を発行。(
六五二年
四月二十七日((甲寅)) 私鋳銭者を鋳銭司で使役。(
六五四年
一月二十九日((丙子)) 銀銭、銅銭、銀一両の交換比率を公定。 (

 654年の乙巳の変の翌年にあたる和同開珎に関する記事の見直し年次「646年」は、『日本書紀』では孝徳天皇の時代であるが、乙巳の変の直後から中大兄皇子(のちの天智天皇)が、実質実権を握ったのではないかと考えている。
 見直し年次「646年」の「② 始めて銀銭を発行」は、日出処天子阿毎多利思比孤)が、「鋳銭司」を置いていた倭国東朝香春岳の地天智天皇が、新和同開珎Aを作らせたと考えている。

 新和同開珎Aの謎
 唐と国交したらしい倭国東朝天智天皇が、その発行の勅を下した主権者と見るべきではないだろうか。
斉明(天智)二年(六五六→六四六
写真「新和同」

唐の「隷書体」で「開」の
門構えの上部が空いている。
        

画像「開」
 銅銭(新和同)の銅は、倭国東朝(豊国)の香春三ノ岳(天香山)の銅。
 鋳銭司がないか? → 香春町採銅所
貞観7年((865年))
勅して、山城國相楽郡旧鋳銭司の地二十余町を以て、採銅の地と為す

 天智天皇は、唐と国交をしていたと考えているから、その天智天皇が作らせた(詔勅をだした)新和同開珎Aの字体は、「唐の隷書」である。

 和同開珎の現行史料の年次と比較すれば、7世紀後半に作られたとする富本銭は、わが国最古の貨幣という事になるが、富本銭の「」の字体から作られた年代を再考する。
 この「」の字体が、「唐の隷書」だという事は、西安市(長安)の郊外で発見された『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』に「日本」と刻まれている「」の字体と同じである。
 したがって、富本銭も唐と国交を結んでいた天智天皇の勅命で作られたという考えが見えてきた。
 そして、「日本」という国号は、天智天皇九年(670年)に改められた事が、『三国史記』の新羅本紀の中に記されているから、富本銭が作られたのは、早くても670年かその翌年以降となる。
 和同開珎に関する見直し年次で、古和銅が作られたのは倭国本朝阿毎多利思比孤の時代であり、古和銅富本銭より先に作られていた事になる。わが国最古の貨幣は、古和同開珎である。

 富本銭は、わが国最古の貨幣か?
写真「富本銭」
 富本銭(ふほんせん)は飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)での1998年の発掘調査で出土、発見されました。それにより、7世紀後半に富本銭がつくられていたことがわかりました。
『大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘』の拓本

*2

大唐故右威衛將軍上柱國 祢公墓誌銘
天智天皇九年((670年))春二月に、戸籍を造る。

庚午年籍。唐の冊封下に入る。
 倭国、更めて日本と号す。自ら言ふ。日出る所に近し。以に名と為すと。
(『三国史記』新羅本紀文武王十年十二月)

*2

 百済の佐平  禰軍(ねぐん)の没年「678年」

 国号を「日本」と改めた天智天皇が作らせたこの富本銭の銭字の意味は、「ます」という事ではないか?(福長説)
 そして、日銀金融研の理化学的分析(金属組成分析)により、この富本銭に使われてる銅もまた香春岳の銅である。

 新和同開珎Bの謎
六五五年
十月二十九日((乙丑)) 役夫・運脚に銭で稲を購入させる。(
六五七年(「日本書紀」天智三年)
四月十五日((壬申)) 銅銭の使用を命じ、銀銭の使用を禁じる。(
八月十八日((己巳)) 銀の使用を続けさせる。(
 是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等、置防與烽。又於筑紫、築大堤水、名曰水城
(「羅城」の語が天武
 紀にある。)
六六六年(天智五年)
三月十三日((丁酉)) 周防の銅長門の鋳銭に使用。
写真「富本銭」
写真「新和同」

 見直し年次「666年」に「周防の銅を長門の鋳銭に使用」とあるが、長門鋳銭司出土の鋳型の写真から石の鋳型になっている。
 採銅所では、砂の鋳型を用いて作られていたようであるが、石の鋳型で作られるようになり、銭字の輪郭がシャープになった。。

 ③   

  天武天皇の詔勅 

 現行史料の見直し年次「682年」記事に「③ 始めて催鋳銭司を置く」が出てくる。3度目の「始めて」という事は、3人目の天子(政権主権者)とい事になる。
 672年に「壬申の乱」が起こり、大海人皇子(のちの天武天皇)が勝利し、天智朝から天武朝に変わった以後の記事である。

 新和同開珎Cの謎
六七二年(天武天皇元年)
六月~八月 壬申の乱
日本は乃ち小國の爲に(あわ)せらる。故に其のを冒す。(新唐書)
六七三年
月二日((乙酉)) 銀銭を廃して銅銭に一本化。
閏十一月十九日((庚子)) 鋳銭司を追加設置。
六七四年
九月十八日((乙丑)) 銀銭の使用禁止。
六七八年
一月二十五日((壬午)) 銀銭の私鋳を禁じる。
三月二十八日((甲申)) 銀銭と銅銭の使用規制を定める。
六八〇年
十月二十三日((甲子)) 蓄銭叙位令・私鋳禁止令。
十二月二十日((庚申)) 蓄銭叙位追加令。
 新和同開珎Cの謎
六八二年
二月十一日((甲戌)) 始めて催鋳銭司を置く。
六八三年
九月二十日((甲辰)) 撰銭禁止令。
[六八二年]の「催鋳銭司」設置の記事に筆者は注目する。
「催鋳銭司」の「」は、従来いわれているように鋳銭作業を急がせる(=催促する)という意味ではない。「催・摧・䜅はみな同義」(白川静『字通』)とあるように、この場合の「催」は「」すなわち〝砕く〟という意味と捉えるべきで、「催鋳銭司」とは〝摧銭〟と〝鋳銭〟を共に行う官司機構だったと考えるのである。「和同開珎」の旧銭(古和同)を砕いて鋳潰し(=摧銭)、新銭(新和同)にそれを鋳直すことがその中心的な役割だったのではないだろうか。(添田馨)
 若干の修正を施すなら「古和同新和同A新和同Bを鋳潰し(=摧銭)、新和同Cに鋳直した」ということになろう。銅の産地にも合う。

(福永説)

  和同開珎は、3人の天子の詔勅で作られた 

 4種類の和同開珎

 

 「607年」「始めて鋳銭司とその長官を置く

 ・・・ 阿毎多利思比孤(古和同)

 

 「646年」「始めて銀銭を発行」、「始めて銅銭を発行

 ・・・ 天智天皇(新和同A・B、富本銭)

 

 「682年」「始めて催鋳銭司を置く

 ・・・ 天武天皇(新和同C)