「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

⑥ 次いで、天の忍穂耳の命の長男、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくし
 みたまにぎはやひのみこと)」が三十二将・天物部(あまのもののべ)等二十五部族を率いて豊葦原の水穂の国に降臨。
 (天神本紀)
  垂仁天皇十六年(紀元前十四年)、天照大神こと饒速日尊が笠置山(四二五m)に降臨。(天照宮社記等、
 天照宮は福岡県鞍手郡宮田町磯光に鎮座する)
  次男、「迩迩藝の命」が(長男天の火明の命と別に)五伴の緒(五つの部族)を率い、竺紫日向之高千穂之
 久士布流多気(ちくしのひむかのたかちほのくしふるたけ)に降臨した。(記)

 これらのまとめに見事に合致するのが、立岩式石包丁の流通を
示した、右の図である。
 この図は、先の渡来型弥生人の人骨の分布図とも重なり、天孫
降臨が歴史事実であることを裏付けるだけでなく、さらに具体的
に、饒速日尊の笠置山降臨(天神降臨)の事実をも裏付けてくれ
そうだ。

 立岩遺跡についてこうある。
 《福岡県の考古学の研究に大きな足跡を残した中山平次郎氏は、
一九三四(昭和九)年「飯塚市立岩字焼ノ正の石庖丁製造所址」を
書き、立岩丘陵での石包丁製作遺跡に注目した(四二年に森貞次郎
氏が「焼ノ正」を「下方」に訂正。「下方」は「下ノ方遺跡」)。

 立岩の近くにある笠置山から輝緑凝灰岩がとれ、それが丈夫な
石包丁を作るのに好適だった。
 弥生時代前期末から、立岩での石包丁製作がはじまり、中期
前半になると遠賀川流域、また周防灘沿岸にまで流通していく。
中期後半には、福岡、朝倉など北部九州の平野部へ、また筑後・
佐賀平野から日田盆地(大分県)にまで製品が流通している。

「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図より

 つまり立岩丘陵では、前期末から後期初頭までのおよそ三百年間、稲作作業に欠かせない穂摘み道具である
石包丁の製作・流通を盛んに行い、 そのことによって他に対する
優位を誇っていたにちがいない。
 立岩丘陵の盛衰を考えるとき、この石包丁は大きな意味をもっている。》
 (戦後五〇年 古代史発掘総まくり  アサヒグラフ別冊一九九六年四月一日号、上川敏美氏提供)

 傍線部は筆者が施したが、考古学の一報告と、筆者が文献と現地伝承から抽出した「天神降臨」の歴史事実
とが、特に年代と場所とが見事に一致していると思われてならない。
 また、後半は、中国史書に云う「倭奴国」の盛衰をも言い当てている気がする。「天神降臨」=「そらみつ
倭国」の草創は歴史事実と見てよいだろう。最初の「倭(やまと)王朝」はここから始まった。

 記紀に書かれた「迩迩藝の命(瓊瓊杵命)」の天孫降臨も歴史事実だが、それは今山の石斧の地のことであり、
饒速日尊ら本隊の別働隊として、板付水田や菜畑水田を侵略したものであろうと思われる。