「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

帯方郡から倭・女王國に

 『古事記』の筑紫の末羅の縣が、『魏志倭人伝』の末廬国であれば、明らかに今の宗像である。その後の陸行で
辿れば田川となる。そこは、白石の山、本物の倭三山(香春岳)があり、香春ノ神は比売語曽神社(比売社)で
あるように卑弥呼と考えられる。

 『魏志倭人伝』より30年前に書かれた『魏略』という書物に書かれた「帯方郡から倭・女王國」への記述。

帯方郡から倭・女王國に
分軄命官統女王而列部
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、
暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度
一海、千餘里至對馬國。 其大官曰卑
拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。
南渡海、至一支國、置官至對同。方可
三百里。又渡海、千餘里至末盧國
善捕魚
能浮沒水取之。東南五百里、
伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩
溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰…自帶方至女國万二千餘里

 

水行十日
魏使のルート地図「楽浪郡・帯方郡~末盧国」

 末盧国は、どこか?宗像市の  田熊石畑遺跡(宗像高女跡) からは、弥生時代の遺物が沢山出土している。
 宗像大社 では、海上安全や大漁など願って行われる祭礼の「みあれ祭」が行われる。
 末盧国(宗像)から東南陸行五百里で伊都国に至る。次に奴国、不彌国に至り、邪馬台国(田川)へ着く。
 =「宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2
 

伊都国へ  東南陸行五百里
魏使ルート「末盧国から邪馬台国」
宗像市釣川

 

 不彌国の新しい候補地が、糸田町の  大宮神社(宮山) である。ここからも弥生時代の遺物が出ている。

不彌国の候補地 大宮神社(宮山
糸田町宮山から出土した弥生土器

上段左から
  弥生土器(鉢)
  弥生土器(壺)
  弥生土器(長頸壺)
下段左から
  弥生土器(甑底部)
  弥生土器(高坏)
  弥生土器(壺口縁部)

<中広形銅戈>

糸田町出土の「中広形銅戈」

出土・国:福岡県田川郡
 糸田町下糸田字宮山出土
時代:弥生時代 後期
形状:長 38.7 関幅 11.8 
 身幅 7.0 茎長 2.9 茎幅 2.9
備考:重 512g

 

 香春で即位した卑弥呼は、敵国の狗奴国との戦いの防衛のために赤村の大原、天然の環濠集落で今から60年近く前に田圃を
補修する時に弥生時代の土器がいっぱい出土している。
 赤村の教育委員会が『郷土 我鹿(あか)』という本の中で、弥生時代の大きな集落だと書いている。ここが、卑弥呼の宮殿跡と
考えている。
 ここのすぐ横にある  光明八幡神社 に祀られている神の最後が、比売大神である。卑弥呼は、ここにも祀られていた。
 大阪在住の坂田隆先生が、私より20年も早くから赤村の大原こそが卑弥呼の宮殿跡だと言っていた。

卑弥呼の宮殿跡
横枕・大原地区の遺跡群
発見                
一部分の調査
 ・盛土した部分だけ遺跡
 ・工事中数々の土器盗難
 ・弥生時代の大きな集落
『郷土 我鹿
  文化財を訪ねて』 より
赤村・横枕遺跡
Google Earth「赤村大原」

<赤村大原>