「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 斉明天皇と天智称制の謎

 白村江の戦いと壬申の乱(令和元年7月28日、九州古代史の会夏期講演会 より)

壬申の乱の「上中下の道」 香春町高野に「左中津道」の道標が残されている 

7月4日 東道軍
     軍を分けて、上中下の道に当てて、駐屯させる。将軍は中つ道へ。

 香春町高野

「写真」

 

「写真」

「左中津道」と刻まれた道標

「写真」

 仲哀峠へ向かう道であるが、現在は田んぼになっていて道は残っていない。

<所在地のGoogelマップ>・・・山頭火碑(ふりかヘれば香春)より東へ100m弱

 近つ飛鳥(京築)~ 遠つ飛鳥(田川)を結ぶ東西の道

 

  上つ道(大坂柿下~小柳)

 

  中つ道(仲哀峠~中津原)

 

  下つ道(味見峠~採銅所)

『日本書紀』の通説では、上つ道・中つ道・下つ道は奈良県の桜井市を中心に南北の道だと言ってきた。
 上つ道・中つ道・下つ道は、左記の地名を通る道だとした。香春町の地図上の地名に点滅の「●」で示す。

 田川の土地だからわかる事は、「上・中・下」というのは、ある山を基準にして決まる。その山は、英彦山である。だから、英彦山の側(南側)が(かみ)になり、英彦山から離れる側(北側)が(しも)になる。
 この条件は、田川郡のあちらこちらの字名に残されている。

 「上道に当たって、箸陵の下で戦う。」とあるこの場所こそが、全長460mの前方後円墳がある赤村内田の「  小柳 」である。

地図「香春町」

「左中津道」