「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 真実の仁徳天皇(大鷦鷯の乱)

※ 真実の仁徳天皇(平成27年7月25日、於 香春町町民センター)の講演より

■ 大事件が発生=「大鷦鷯の乱」
  ⇒ 太子の輔(補佐)であった大鷦鷯が、宇治天皇を殺害する

著書『真実の宇治天皇』から引用

宇治天皇殺害に関わる奇祭、あがた祭り

 これも田中和典氏から教示していただいたが、古代倭国(豊国)の宇治から東遷したと思われる人々が、
京都府宇治の(あがた)神社に、宇治天皇殺害を臭わえるような奇祭を残していたようである。
 不思議なことに、宇治神社に菟道稚郎子が祀ってあるが、この奇祭は伝わらない。縣神社の祭神は木花耶
姫命となっていて、奇祭は伝わっている。
 次は縣神社の公式ホームページから引用したその「あがた祭り」の解説である。

 六月五日から六日未明にかけて行われる「暗闇の奇祭」として有名です。当日はあがた通り、本町通り、
新町通りを結ぶ三角形の通りに露店が七〇〇店余り出店し、十数万人の見物客で終日賑わいます。
 あがた神社では五日の朝御饌の儀から神事が始まり、夕方の夕御饌の儀をへて祭のクライマックス、
梵天渡御へと盛り上がっていきます。
 十時ごろ露店は終わり十一時ごろから梵天が法被装束に身を包んだ、地元の梵天講の若者達に担がれて
動き出します。本殿で灯りを消した真っ暗な中で神移しが行われ出発します。境内を練り歩き鳥居をくぐって
表に出た梵天は、旧大弊殿前でブン回しや差し上げなど勇壮に走り回ります。
 再び境内に帰って還幸祭を終えるのは夜中の一時ごろ、まさに暗闇の奇祭の名に相応しいものです。

 

宇治市県祭り(灯火を消した暗闇の中で行なわれる暗闇祭)

「写真」
「写真」

 宇治市 県祭り 

「写真」
梵天のブン回し
大鷦鷯の乱(豊国史)

*.大和王朝の東遷後、香春町の人々が宇治市へ移住した。そこの「県祭り」梵天(ぼんてん)のブン回しという
 荒々しい祭りがある。
  最後には、この梵天をある建物に入れて解体してしまう。その梵天が宇治天皇の最期のようである。
 大鷦鷯の配下に殺されたらしい。この暗闇祭は、6月5日深夜~翌6日にかけて行われる。

 

『万葉集 八五 ~ 八八番歌の四首』

(八八)
 秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 
我戀将息
(八七)
 在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 
霜乃置萬代日
(八六)
 如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 
死奈麻死物呼
(八五)
 君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 
待尓可将待

 右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉
 難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 
謚曰仁徳天皇

磐姫髪長媛皇后思天皇御作歌四首
 是に天皇、高山に登りて、四方の國を
見たまひ
大鷦鷯の乱(豊国史)

*.ここでの「高山」は「かぐやま」の訓読では無く、「たかやま」で良い。
  この高山の場所は、何処か? 行橋市入覚の「 幸ノ山 」が高山だった。真実の仁徳天皇である宇治天皇は、
 三度国見をされたようであり、その三度目の国見をした山が、高山である。
 大鷦鷯に  比良の宮 から誘い出されて、国見をした。

 『万葉集』巻二の冒頭に「難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇  謚曰仁徳天皇」とあるが、大鷦鷯天皇は、
仁徳天皇ではないので、棒線で消した。
 大鷦鷯天皇の正妃、磐姫皇后の歌になっているが、これは宇治天皇の皇后である髪長媛皇后の歌と訂正した。
八六番歌に「高山(たかやま)」が出てくる。
 この冒頭の四種について『 「君が行き」歌は磐姫皇后の御作歌にあらず ⇒ 髪長媛皇后に仮託された悲劇的な
絶唱 
』のページに口語読みと新解釈があります。

 

『万葉集 一三番歌』

《高山(大鷦鷯天皇)は畝傍山(髪長媛)を
 愛しいと思い、耳梨山(菟道天皇)と争った。
 神代からこうであるらしい。昔もそのようで
 あるからこそ、現世の人の世でも(他人の)
 妻を争うらしい。》
(万葉集一三)
(高山は 畝火を愛しと 耳梨と 
 相争ひき 神代より 此くにあるらし 
 古も 然にあれこそ 虚蝉も 
 嬬を争ふらしき)
 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 
相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 
然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
 中大兄 近江宮御宇天皇 三山
大鷦鷯の乱(豊国史)

*.『万葉集』では、高山と書いて「かぐやま」と読ませるが、「たかやま」と読み変えたと
 考えると大鷦鷯天皇の妻争いの解釈が成り立つ。

 

『日本書紀 応神紀』 歌謡三七、三八

※ こはだをとめ = 髪長媛皇后  
 許の国・木幡村(風土記逸文)  
 宇治に同じ。現在の香春町古宮の地。
(仁徳紀)
(遠い国の古波儾嬢女が、逆らわずに一緒に
 寝てくれたことをすばらしいと思う。)
 道の後 古波儾嬢女 争はず
寝しくをしぞ 愛しみ思ふ
(遠い国の古波儾嬢女は恐ろしいほど美しいと
 噂が高かったが、今は私と枕をかわす仲に
 なった。)
 道の後 古波儾嬢女(こはだをとめ)を 神の如 
聞えしかど 相枕枕く
大鷦鷯の乱(豊国史)

*.大鷦鷯尊が「古波儾嬢女(こはだをとめ)」と歌っているのは、「髪長媛」である。
  宇治天皇の宮 、宇治のあった土地が、許の国である。
  宇治天皇の母、宮主宅媛が応神天皇と出会ったのが、木幡村であり、その宇治の地からきた
 嬢女ということで「こはたむらのをとめ」で「こはだをとめ」と歌った。

 この『日本書紀』の歌謡で、大鷦鷯尊が「聞こえしかど(噂に高かった)」と歌っていることが、応神天皇の
宴席で「髪長媛」を直接見て、あまりのも美しいので応神天皇に自分に欲しいとお願いしたとなっていることと
矛盾する。
 次の歌謡でも「争はず(逆らわずに)」と歌っているが、正式に結婚を許されてた相手に対する歌の内容と
してはおかしい。
 歌謡が、歴史の真実を歌っている。
 応神天皇の宴席で、髪長媛を直接見て欲しいとお願いしたのは太子菟道稚郎子であり、大鷦鷯尊は髪長媛を
見ていなかった。
 『三山(倭三山)歌の妻争い』と『日本書紀』の歌謡については、『 應神天皇、髪長媛(=古波儾嬢女)を
太子菟道稚郎子に賜う 
』のページを参照下さい。

 

 宇治天皇(菟道稚郎子)の陵墓が、香春町にある 伽藍松(がらんまつ) と思われる。