「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 真実の仁徳天皇(通説の大鷦鷯天皇ではなく宇治天皇である)

※ 真実の仁徳天皇(平成27年7月25日、於 香春町町民センター)の講演より

■ 応神天皇の太子は、菟道稚郎子である

『日本書紀 応神紀』 四十年の記事
(応神天皇は、皇太子(次期天皇)を一番年下の菟道稚郎子とした)

(日本書紀 應神紀)
 即日に、大山守命に任じて、山川林野を掌
らしめたまふ。大鷦鷯尊を以て、 太子 の輔と
して、國事を知らしめたまふ。
 是の時に、天皇常に 菟道稚郎子 を立てて、
 太子 と爲たまはむ情有り。
然るを二の皇子の
意を知りたまはむと欲す。故、是の問を發し
たまへり。是を以て、大山守命の對言を悦び
たまはず。甲子に、 菟道稚郎子 を立てて嗣と
爲たまふ。
 卌年の春正月の辛丑の朔戊申に、天皇大山
守命・大鷦鷯尊を召して、問ひて曰く、「汝
等は子を愛するか」とのたまふ。
真実の仁徳天皇(豊国史)

*.ここでは、大鷦鷯尊は「太子の輔」であり、太子では無い。

 

『日本書紀 応神紀』 十六年、二十八年の記事
(皇太子菟道稚郎子は、王仁から教養習得し、活躍もしている)

(日本書紀 應神紀)
 二十八年の秋九月に、高麗の王、使を遣し
て朝貢す。因りて表上れり。其の表に曰く、
「高麗の王、日本國に教ふ」といふ。時に
 太子菟道稚郎子 、其の表を讀みて、怒りて、
高麗の使を責むるに、表の状の禮無きことを
以てして、則ち其の表を破る。
 十六年の春二月に、王仁來る。則ち 太子 
 菟道稚郎子 、師としたまふ。諸典籍を王仁に
習ひたまふ
。通達せざるは莫し。所謂王仁は、
是書首等の始祖なり。
真実の仁徳天皇(豊国史)

 

※ 『日本書紀 応神紀』の太子と『古事記 応神記』の太子の記述について双方の大きな矛盾についての説明は、
 資料「宇治の京」より引用しました  こちら のページを参照下さい。