「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 真実の仁徳天皇(平成27年7月25日、於 香春町町民センター)の講演より
■ 王仁から諸典籍を習った太子菟道稚郎子(宇治天皇)は、王道政治(孟子の民本)を行った
二度目の国見の後の宇治天皇と髪長媛皇后との会話
*.『日本書紀 仁徳紀』では、七年の記事になっているが、二度目の国見は宇治天皇の
三年である。ここでの皇后は、髪長媛である。
新宮殿が造営された時に、以前の「宇治宮」を歌った歌
*.「宇治宮」は、香春町古宮ヶ鼻の 阿曽隈社跡 である。
※ 万葉集 7番の左注の干支より
金の野の草を刈って屋根にふいて宿っていたあの宇治の宮室(福岡県田川郡香春町宮原附近)の
質素な造りがなつかしく思い出される。
山上憶良大夫の類聚歌林を調べると書いてあることには、一書に戊申の年(宇治天皇三年=四〇八年)に
(宇治天皇が)比良の宮(菟道河沿いの地か)に行幸されるときの大御歌といっている。
(後略)
『百人一首』序歌「難波津」の歌は、翌年正月(四〇九年)である。
『百人一首 序歌』 王仁の歌
*.太子菟道稚郎子は「王仁」から諸典籍を習った。
この歌は、師であった王仁が、新宮殿の 比良の宮 での正月を祝った歌である。