「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 真実の仁徳天皇(通説の大鷦鷯天皇ではなく宇治天皇である)

※ 真実の仁徳天皇(平成27年7月25日、於 香春町町民センター)の講演より

■ 王仁から諸典籍を習った太子菟道稚郎子(宇治天皇)は、王道政治(孟子の民本)を行った

二度目の国見の後の宇治天皇と髪長媛皇后との会話

(仁徳紀)
 三年の夏四月に、天皇、香山に登りまして、
遠に望みたまふに、烟氣多に起つ。是の日に、
皇后に語りて曰はく、「朕、既に富めり。更
に愁無し」とのたまふ。
 皇后、對へ(まう)したまはく、「何をか富めり
と謂ふ」とまうしたまふ。
 天皇の曰はく、「烟氣、國に滿てり。百姓、
自づからに富めるか」とのたまふ。
 皇后、且また言したまはく、「宮垣壞れて、
脩むること得ず。殿屋破れて、(おほみそ)(  おほみふすま) 露
にしほる。何をか富めりと謂ふや」とまうし
たまふ。
 天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、
是れ百姓の爲になり。然れば君は百姓を以て
本とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ
寒ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧
しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕
が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧
しといふことは」とのたまふ。
真実の仁徳天皇(豊国史)

*.『日本書紀 仁徳紀』では、七年の記事になっているが、二度目の国見は宇治天皇の
 三年である。ここでの皇后は、髪長媛である。

 

新宮殿が造営された時に、以前の「宇治宮」を歌った歌

【新解釈】
 金の野の草を刈って屋根にふいて宿って
いた、あの宇治の宮室(福岡県田川郡香春町
古宮ヶ鼻
の質素な造りがなつかしく思い出
される。
(万葉集七)
 金の野の み草刈り葺き 宿れりし
宇治の京の 仮廬し思ほゆ
(仁徳紀)
 冬十月に、甫めて課役を科せて、宮室を
構造る。是に、百姓、(うながさ)れずして、老を
扶け幼を携へて、材を運び()を負ふ。
日夜と問はずして、力を(つく)して競ひ作る。
是を以て、未だ幾時を經ずして、宮室悉に
成りぬ
。故、今までに聖帝と稱めまうす。
真実の仁徳天皇(豊国史)

*.「宇治宮」は、香春町古宮ヶ鼻 阿曽隈社跡 である。

※ 万葉集 7番の左注の干支より

 金の野の草を刈って屋根にふいて宿っていたあの宇治の宮室(福岡県田川郡香春町宮原附近)の
質素な造りがなつかしく思い出される。
 山上憶良大夫の類聚歌林を調べると書いてあることには、一書に戊申の年(宇治天皇三年=四〇八年)に
(宇治天皇が)比良の宮(菟道河沿いの地か)に行幸されるときの大御歌といっている。
  (後略)
 『百人一首』序歌「難波津」の歌は、翌年正月(四〇九年)である。

 

『百人一首 序歌』 王仁の歌

【新解釈 ① 朝廷の御初めを祝った歌】
 宇治天皇の新宮殿である岡(遠賀)の海の
難波津にある比良の宮に咲き誇っているよ、
梅の花が。
 ちょうど、冬、木の芽が盛り上がるように、
宇治帝が三年間、人民の課役を科せられずに、
雨漏りのする粗末な宇治の京の仮廬のような
宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やが
て炊煙が盛んに立つようになった。
 天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成っ
た今を、聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)
と讃えるかのように、咲き誇っているよ、梅
の花が。四〇九年
王仁
 難波津に 咲くや木の花 冬木成 
今は春べと 咲くや木の花
真実の仁徳天皇(豊国史)

*.太子菟道稚郎子は「王仁」から諸典籍を習った。
  この歌は、師であった王仁が、新宮殿の 比良の宮 での正月を祝った歌である。