「邪馬臺國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 立磐神社 = 第二次神武東征(美々津出港)

以下、2021年12月3日(金)、『新説日本書紀』第9回講座より

  第二次東征で神武天皇は何故、「美々津から出港」したのかは  こちら からご視聴頂けます。

※ 2020年版 神武東征(全5回シリーズ「肆」)
 (令和三年一月二十八日、豊の国古代史研究会有料配信)

神武天皇御一代記御絵巻

Ⓒ橿原神宮

三 寶船美々津御解纜 速吸之門に至る

三 寶船美々津御解纜 速吸之門に至る

第二次神武東征
美々津出港
 日向市・美々津港の右岸に立磐神社という社があり、境内に1つの岩が保存されている。
 神武天皇が日向から東方に向かって船出するとき、この岩の上に立って指図したところと伝えられる。
 神武天皇は諸皇子や大勢の船軍(ふないくさ)を率いて美々津で出港の準備をした。
 「日本書紀」では、出発はその年(甲寅)の冬10月5日とされているが、美々津のお船出伝説では、8月朔日(旧暦8月1日)のこととしている。
 当初予定のときは天候が悪く、船出を見合わせたが、天候が回復したので、出港を8月1日の夜明けに決めた。
 神武天皇は慌ただしく出発の用意をする中で、着物のほころびに気付いた。
 しかし、衣服を脱いで繕う暇がなかったので、立ったままでお付きの者が縫った。
 美々津のことを、別に「立縫いの里」と呼ぶのはこのことに由来しているという。
第二次神武東征
美々津出港
 土地の人々は神武天皇の船出に合わせて、もちを作る用意をしていたが、出発が早くなったので、間にあわなくなった。
 それで急いで、もちとあんを一緒についた「つき入れ」を作って差し上げた。
 以来、これは美々津の名物となっている。
 また、早朝の出発のために寝ている人々を起こすことになって「起きよ、起きよ」と家々を起こして回った。
 このことが伝承されて、美々津では8月1日に「おきよ祭り」が行われる。
 神武天皇の船軍は、沖の七ツ(ばえ)と一ツ(ばえ)の間を通っていった。
 この船軍は再び国に帰ることはなかったので、その後この岩礁の間を船で通る者はいない。
(甲斐亮典)
第二次神武東征
美々津出港
立磐神社

 神武天皇は45歳の時、東を目指して美々津の港からお舟出をしたといいます。
 神社には神武天皇らを祀り、訪れた際に腰掛けたとされる岩が境内に残っています。周辺には、急ぎの出立のため、立ったまま衣服を縫ったという「立縫」という地名もあります。
 潮や風の影響で旧暦8月1日の夜明けに出航することになり、家々を「おきよ、おきよ」と起こして回ったことから今も「おきよ祭り」が行われています。

Ⓒ宮崎 神話の源流へ
 立磐神社

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