「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※1
倭五王(讃、珍、濟、興、武)の時代の倭国は、 紀氏 王権(火国の王権=水沼の皇都:水沼君、玉垂命)が君臨していた。
『宋史』に云う「第十五代神功天皇」が、邪馬臺国の王族と思われる「豊国の忍熊王」や「羽白熊鷲」や「火の君桜桃沈輪」等を征伐し、邪馬臺国を滅ぼした。
三六九年、新に「 水沼の皇都 」建設し、新・邪馬台国を創始。
三九一年(辛卯) 、応神天皇(『宋書』に云う倭讃)が高句麗を攻撃(広開土王碑)。 爾後、讃・珍・済・興・武といういわゆる「倭の五王 」が君臨し、国・韓半島に強大を誇り中国南朝と外交した。
『吉山旧記 』の「仁徳天皇七十八年(三九〇)三月十一日薨去」の記事が、神功皇后の没年と推測。
この「王年代紀」紀では、第十五代は、神功天皇とある。また、王年代紀にも関わらず大臣紀武内宿禰の記述があり、三〇七歳も長生きした紀武内宿禰は、『日本書紀』の景行紀から雄略紀にかけて、時々、記述されているが、この武内宿禰が一人長生きしたのでは無く、これが、紀氏王権としての記録である。
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哲(倭国王) = 筑紫君磐井の墓が、 岩戸山古墳 。
牛慈の時に欽明天皇(金刺宮)に服降し、夜須評督となる。
「磐井の乱」で敗れ、豊国の継体天皇に王権が戻る。紀氏は、降伏し王権から地方長官(夜須評督)に位を降りた。
『神功皇后紀と魏使倭人伝』(2017年1月29日)大任町講演時に以下に訂正。
邪馬台国(豊国)は、三角縁神獣鏡圏の国から出た神功天皇に滅ぼされた。神功天皇は豊国を治め、紀武内宿祢(藤大臣)は、筑後国水沼に皇都を建て、筑紫王朝(紀氏王権=倭の五王とその前後)を創始した。
ここに「豊国王朝(兄国)」と「筑紫王朝(弟国)」とが並立した。武の次の「哲」が筑紫君磐井に当たるようである。豊国の継体天皇と争って敗れ、王権は豊国に戻る。
継体天皇の磐余玉穂宮は、福智町金田の 稲荷神社 である。その稲荷神社ある玉穂山の下に敷島交差点がある。
欽明天皇(和風諡号を志帰嶋天皇、斯帰斯麻天皇)の「しきしま」である。
『日本書紀 欽明紀』 ・・・ 「欽明天皇の宮」の記事。
秋七月の丙子の朔己丑に、都を倭國の磯城郡の磯城嶋に遷す。仍りて號けて磯城嶋金刺宮とす。
『倭五王(讃、珍、濟、興、武)の史料が、神功皇后没後の王朝(紀氏王権)』の記事
四一三
(晋 安帝 義熙 九年)
倭国万物を献ず (『晋書』本紀)
晋安帝の時、倭王讃あり、使を遣わして朝貢す (『南史』列伝)
四二一
(宋 武帝 永初 二年)
倭讃万里貢を修む、除授を賜うべし (『宋書』列伝)
四二五
(宋 文帝 元嘉 二年)
讃また司馬曹達を遣わし表を奉り方物を献ず (『宋書』列伝)
四三〇
(宋 文帝 元嘉 七年)
倭国王使を遣わして方物を献ず (『宋書』本紀)
四三八
(宋 文帝 元嘉十五年)
倭国王珍を以って安東将軍と為す (『宋書』本紀)
讃死し、弟珍立つ、使を遣わして貢献、安東将軍倭国王に除す。珍また倭随ら十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔してならびに聴す (『宋書』列伝)
四四三
(宋 文帝 元嘉二十年)
倭国使を遣わして万物を献ず (『宋書』本紀)
倭国済、使を遣わして奉献す。復た以って安東将軍倭国王となす
(『宋書』列伝)
四五一
(宋 文帝 元嘉二八年)
安東将軍倭王倭済進号 (『宋書』本紀)
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加う、安東将軍故の如し、並びに上る所の二十三人を軍郡に除す (『宋書』列伝)
四六〇
(宋 孝武帝 大明 四年)
倭国使を遣わして万物を献ず (『宋書』本紀)
四六二
(宋 孝武帝 大明 六年)
倭国王世子興を以って安東将軍となす (『宋書』本紀)
済死し、世子興使を遣わして奉献す。安東将軍倭国王とすべし
(『宋書』列伝)
四七七
(宋 順帝 昇明 元年)
倭国使を遣わして万物を献ず (『宋書』本紀)
四七八
(宋 順帝 昇明 二年)
倭国王武使を遣わして方物を献ず。武を以って安東大将軍となす
(『宋書』本紀)
興死し、武立つ。使を遣わして上表し、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を安東大将軍倭王に除す (『宋書』列伝)
四七九
(斉 高帝 建元 元年)
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国将軍安東大将軍倭王武に新除し、号を鎮東大将軍と為す (『南斉書』列伝)
五〇二
(梁 武帝 天監 元年)
武、進号征東将軍 (『梁書』本紀・列伝)
武、進号征東大将軍 (『南史』列伝)
※3
5世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃「 東西五月行 」の成立
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『隋書』「俀国伝」の前半部の訓読
<『東西五月行の成立(五世紀後半、倭武の常陸巡幸の頃)』より抜粋>
『漢書』に記された「東鯷国」を追究して、今日まで類を見ない「倭国史」を描出した。この「倭国史」が決して荒唐無稽のものでないことを知っていただくため、最後に、『隋書』「「俀国伝」の前半部の訓読を掲げる。
本稿と照合していただきたい。筆者は、下記の赤字部を詳述したに過ぎない。