「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
※ YouTube動画「平成29年6月4日(日) 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた 」はこちらから
ご覧になれます。尚、リンク先は短篇動画16本の再生リスト一覧です。
タイトルにある『蘇我氏は「みやこ」にいた』と平仮名で「みやこ」と書いていますが、みやこ町と
京都(みやこ)郡の「みやこ」を意識しています。
蘇我氏が、ここに居たという我が国初の紹介である。すべて、証拠がありますので、それを説明して
いきます。
倭国=豊国説、つまり、古代「ヤマト」国は、豊国にあったという説を唱えている。皆さんの頭の中に
大和(ヤマト)王朝と言えば、通説の学者たちにすりこみによって、奈良県に興ったと思っているが、
違います。こちら豊国にヤマト王朝は興ったのである。
ヤマトとは、何処か? 日子山(英彦山)という聖なるお山のある所が、ヤマトという国名の起こりで
ある。
当然ここ豊前国は、日子山(英彦山)中心の文化圏である。したがって、こここそが、ヤマト国である。
奈良県の大和(ヤマト)王朝は、日子山(英彦山)までは、引っ越しすることが出来なかっただけである。
ここ、豊国に興ったヤマト王朝が、8世紀以降に奈良県に遷って行った。そこが、ニューヤマト王朝である。
オールドヤマト王朝は、豊国に興った言っている訳である。
神武天皇から持統天皇まで、言い換えれば日本書紀に書かれているすべての天皇が、オールドヤマト王朝、
ここ豊国にいらっしゃったというのが、私の仮説の根本である。
その中で、一番解らなかったのが、蘇我氏の存在であった。蘇我氏と蘇我氏に関係する天皇達が、何処に
いたのか。これが、今までずーっとぼんやりしていた。
みやこ町歴史民俗博物館の井上さんに先日、みやこ町の遺跡を案内して頂き、いよいよ確信が持てた。
その確認が持てた内容を今日、皆さんに紹介します。勿論、わが国初である。
※ 以下の7項目は、パワーポイントのみ掲載していますので、資料内容の説明につきましては、
上記のリンク先の再生一覧からYouTube動画を選んでご視聴下さい。
■ 神功征西により邪馬台国滅亡後、豊国に兄弟王朝が誕生
◆ 松連系図(倭五王の系図)と宋史 日本伝
◆ 倭国王 哲(磐井)の陵か
◆ 紀氏王権の禅譲
◆ 神功征西と倭国易姓革命
◆ 求菩提山縁起には、人皇廿七代繼體(継体)天皇
◆ 継体天皇の宮
◆ 樟葉宮は、豊日別宮(草場神社)
◆ 磐余玉穂宮は、玉穂山に鎮座する稲荷神社
◆ 二中歴(九州年号)は、豊国年号
◆ 安閑天皇は、豐筑火の三国のあちこちに屯倉(直轄地)を設けた
◆ 宣化天皇の時に蘇我稻目宿禰がいきなり大臣として登場
◆ 宣化天皇は、安閑天皇が設けた屯倉から那津の官家に穀稼を集め収蔵
◆ 那津の場所は、博多大津(博多湾)ではなく、中間市長津
◆ 欽明天皇の時に筑紫国より豊国に王権が移る
◆ 欽明天皇の磯城嶋金刺宮は、福智町の敷島辺りにあった
◆ 磯城嶋金刺宮から豊前の難波である難波祝津宮に遷都
◆ 蘇我稻目の娘、堅鹽媛が欽明天皇の妃になり、天皇家の外戚となる
◆ 天皇家の宮と陵、蘇我氏の邸宅と墓は、旧京都郡にあった
◆ 欽明天皇は、在位中に百済復興に努める
◆ 物部尾輿は仏像を投げ捨てた難波の堀江は、行橋市流末より下流域の今川
◆ みやこ町の甲塚方墳が、蘇我稲目の墓か
◆ 敏達天皇は、仏法を信じなかった
◆ 海石榴市は、旧京都郡だと言われている
◆ 用明天皇の磐余の池邊雙槻宮は、みやこ町の黒田神社
◆ 用明天皇の所で廐戸皇子が登場するが、聖徳太子という名は、記紀には出てこない
◆ 椿市廃寺は、推古天皇の皇后時代の別荘、海石榴市宮跡に建てられたお寺
◆ 用明天皇の科長中陵は、みやこ町勝山黒田の橘塚古墳と断定
◆ 蘇我氏と物部氏の争いの時代、天皇家の皇子たちが殺されている
◆ 行橋市の稲童古墳群が、物部氏が眠っているお墓か
◆ 四天王氏を建てたのは、廐戸皇子ではなく蘇我馬子では
◆ 百済様式の鴟尾は、築上町の船迫窯跡で造られている
◆ 物部守屋の家来、萬と飼い犬の墓の逸話は、八雷古墳を思われる
◆ 崇峻天皇の時代になって、葬られた敏達天皇の磯長陵は、庄屋塚古墳
◆ 崇峻天皇四年に2万余もの軍隊が派遣された筑紫に誰はいた?
◆ 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘にある「法興」は、筑紫年号
◆ 筑紫年号「法興」を発布したのは、筑紫国の阿毎多利思比孤
◆ 守屋が馬子に滅ぼされた結果、遠賀の物部八十氏が筑紫国に就く
◆ 冠位十二階の制も十七条憲法も阿毎多利思比孤が作った
◆ 平安時代の宋史 日本國に聖徳太子の名が出てくる
◆ 阿毎多利思比孤が、年号「法興」を発布した翌592年に崇峻天皇が暗殺される
◆ 豊国年号が、崇峻天皇暗殺から推古天皇即時まで、1年間空位を示している
◆ 崇峻天皇が暗殺された後、推古天皇即位まで豊国は1年間空位であった
◆ 推古天皇が、隋の裴世清を迎えた海石榴市の衢(ちまた)は、椿市小学校の所
◆ みやこ町勝山黒田の綾塚古墳、別名女帝神社が推古天皇の科長大陵
※ 舒明天皇・皇極天皇以後、天智天皇、壬申の乱、大和王朝の東遷のパワーポイントのページの説明に
つきましては、YouTube動画をご視聴下さい。
また、白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日)等、新しい講演資料に説明書きがありますので、
合わせてご参照下さい。
▶ 壬申の乱前夜
▶ 壬申の乱
▶ 大和王朝の東遷