「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
 (平成二九年六月三日(土)、於:みやこ町歴史民俗博物館 研修室)より

 聖徳太子の正体  蘇我氏は「みやこ」にいた

 

福永晋三
記紀万葉研究家
「神功皇后紀を読む会」主宰
研修室
於 みやこ町歴史民俗博物館
平成二九年六月三日(土)
聖徳太子の正体
 蘇我氏は「みやこ」にいた

YouTube動画「平成29年6月4日(日)  聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた 」はこちらから
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 タイトルにある蘇我氏は「みやこ」にいたと平仮名で「みやこ」と書いていますが、みやこ町
京都(みやこ)の「みやこ」を意識しています。
 蘇我氏が、ここに居たという我が国初の紹介である。すべて、証拠がありますので、それを説明して
いきます。

 倭国=豊国説、つまり、古代「ヤマト」国は、豊国にあったという説を唱えている。皆さんの頭の中に
大和(ヤマト)王朝と言えば、通説の学者たちにすりこみによって、奈良県に興ったと思っているが、
違います。こちら豊国にヤマト王朝は興ったのである。

 ヤマトとは、何処か? 日子山(英彦山)という聖なるお山のある所が、ヤマトという国名の起こり
ある。
 当然ここ豊前国は、日子山(英彦山)中心の文化圏である。したがって、こここそが、ヤマト国である。

 奈良県の大和(ヤマト)王朝は、日子山(英彦山)までは、引っ越しすることが出来なかっただけである。
ここ、豊国に興ったヤマト王朝が、8世紀以降に奈良県に遷って行った。そこが、ニューヤマト王朝である。
 オールドヤマト王朝は、豊国に興った言っている訳である。

 神武天皇から持統天皇まで、言い換えれば日本書紀に書かれているすべての天皇が、オールドヤマト王朝、
ここ豊国にいらっしゃったというのが、私の仮説の根本である。
 その中で、一番解らなかったのが、蘇我氏の存在であった。蘇我氏と蘇我氏に関係する天皇達が、何処に
いたのか。これが、今までずーっとぼんやりしていた。
 みやこ町歴史民俗博物館の井上さんに先日、みやこ町の遺跡を案内して頂き、いよいよ確信が持てた。
その確認が持てた内容を今日、皆さんに紹介します。勿論、わが国初である。

 以下の7項目は、パワーポイントのみ掲載していますので、資料内容の説明につきましては、
 上記のリンク先の再生一覧からYouTube動画を選んでご視聴下さい。

■ 神功征西により邪馬台(やまと)国滅亡後、豊国に兄弟王朝が誕生

 松連系図(倭五王の系図)と宋史 日本伝

 倭国王 哲(磐井)の陵か

 紀氏王権の禅譲

 神功征西と倭国易姓革命

 求菩提山縁起には、人皇廿七代繼體(継体)天皇

 継体天皇の宮

 樟葉宮は、豊日別宮(草場神社)

 磐余玉穂宮は、玉穂山に鎮座する稲荷神社

 二中歴(九州年号)は、豊国年号

 安閑天皇は、豐筑火の三国のあちこちに屯倉(直轄地)を設けた

 宣化天皇の時に蘇我稻目宿禰がいきなり大臣として登場

 宣化天皇は、安閑天皇が設けた屯倉から那津の官家に穀稼を集め収蔵

 那津の場所は、博多大津(博多湾)ではなく、中間市長津

 欽明天皇の時に筑紫国より豊国に王権が移る

 欽明天皇の磯城嶋金刺宮は、福智町の敷島辺りにあった

 磯城嶋金刺宮から豊前の難波である難波祝津宮に遷都

 蘇我稻目の娘、堅鹽媛が欽明天皇の妃になり、天皇家の外戚となる

 天皇家の宮と陵、蘇我氏の邸宅と墓は、旧京都郡にあった

 欽明天皇は、在位中に百済復興に努める

 物部尾輿は仏像を投げ捨てた難波の堀江は、行橋市流末より下流域の今川

 みやこ町の甲塚方墳が、蘇我稲目の墓か

 敏達天皇は、仏法を信じなかった

 海石榴市(つばきいち)は、旧京都郡だと言われている

 用明天皇の磐余の池邊雙槻宮は、みやこ町の黒田神社

 用明天皇の所で廐戸皇子が登場するが、聖徳太子という名は、記紀には出てこない

 椿市廃寺は、推古天皇の皇后時代の別荘、海石榴市宮跡に建てられたお寺

 用明天皇の科長中陵は、みやこ町勝山黒田の橘塚古墳と断定

 蘇我氏と物部氏の争いの時代、天皇家の皇子たちが殺されている

 行橋市の稲童古墳群が、物部氏が眠っているお墓か

 四天王氏を建てたのは、廐戸皇子ではなく蘇我馬子では

 百済様式の鴟尾は、築上町の船迫窯跡で造られている

 物部守屋の家来、萬と飼い犬の墓の逸話は、八雷古墳を思われる

 崇峻天皇の時代になって、葬られた敏達天皇の磯長陵は、庄屋塚古墳

 崇峻天皇四年に2万余もの軍隊が派遣された筑紫に誰はいた?

 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘にある「法興」は、筑紫年号

 筑紫年号「法興」を発布したのは、筑紫国の阿毎多利思比孤

 守屋が馬子に滅ぼされた結果、遠賀の物部八十氏が筑紫国に就く

 冠位十二階の制十七条憲法も阿毎多利思比孤が作った

 平安時代の宋史 日本國に聖徳太子の名が出てくる

 阿毎多利思比孤が、年号「法興」を発布した翌592年に崇峻天皇が暗殺される

 豊国年号が、崇峻天皇暗殺から推古天皇即時まで、1年間空位を示している

 崇峻天皇が暗殺された後、推古天皇即位まで豊国は1年間空位であった

 推古天皇が、隋の裴世清を迎えた海石榴市の衢(ちまた)は、椿市小学校の所

 みやこ町勝山黒田の綾塚古墳、別名女帝神社が推古天皇の科長大陵

 舒明天皇・皇極天皇以後、天智天皇、壬申の乱、大和王朝の東遷のパワーポイントのページの説明に
 つきましては、YouTube動画をご視聴下さい。
  また、白村江の戦いと壬申の乱(令和元年12月1日)等、新しい講演資料に説明書きがありますので、
 合わせてご参照下さい。