「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 古代史フォーラム
  古代田川に天皇がいた2
 (平成30年3月21日(水)、於:福岡県立大学講堂)より

 古代田川に天皇がいた2

■ 邪馬台国に至る末盧國、伊都國の津、不彌国と敵国・狗奴國の場所

● 西暦200年、卑弥呼共立から、240年の魏使が邪馬台(やまと)にやって来るまで

 正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等
 奉詔書印綬  
二四〇 魏使 邪馬台 国に至る
(魏志)
二三八 景初二年六月、邪馬臺國の女王(にし
  て神武の後継者たる)卑弥呼、魏の帯方郡
  に大夫難升米等を遣はす。
(三国志呉書「孫権伝」黄竜二年)
二三〇「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士
 万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定
 狗奴国)および亶州(推定東鯷国)を
 求む」
(魏志韓伝・倭人伝、日本書紀 神功皇后紀)
二〇〇(一九六~二二〇 建安年間)
  卑弥呼共立か。
卑弥呼即位から遣魏使

 

● 南宋時代の魏志倭人伝にある對國・一國ではなく、對國・一國である

・・・ 魏志倭人伝の前の史書、魏略に對馬國、一支國、末盧國、伊都國と書かれている。伊都國の長官が、
   爾支(にき)とある。

 魏略曰…自帶方至女國万二千餘里
文身點面猶稱太伯之苗
 魏略曰、從帶方、循海岸水行、
暦韓國、到拘耶韓國、七十餘里、始度
一海、千餘里至對馬國。 其大官曰卑
拘、副曰卑奴。無良田、南北市糴。
南渡海、至一支國、置官至對同。方可
三百里。又渡海、千餘里至末盧國
善捕魚
能浮沒水取之。東南五百里、
伊都國、戸万餘、置曰爾支、副曰洩
溪觚柄渠觚。其國王皆統屬王女也。
分軄命官統女王而列部
帯方郡から倭・女王國に

 

● 魏志倭人伝に書かれている伊都国の津は、鞍手町の新北津である

・・・ 魏志倭人伝に伊都国には、一大率を置いて全国を取り締まっていた。魏使も最初の遣い以降は、
  伊都国の津(港)までやって来て、後は倭人が女王との間を取り持ったと記録している。
   その伊都国の津が、鞍手町の新北(津)であると思っている。

「古遠賀湾図」

新北

 女王国より以北には、特に一大率を置き
諸国を検察せしむ。
 諸国、之を畏れ憚る。
 常に伊都国に治し、国中に於いて刺史の
如き有り。
 王使を遣はして京都・帯方郡・諸韓国に
詣らしめ、及び郡の倭国に使するや、皆
に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送し
て女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
(中略)
魏志倭人伝

 

・・・ 新北津跡は、  鞍手町の新北 という交差点の近くである。写真の手前側、田んぼの境が、昔の海岸線で
   ある。ここへ魏の遣いが船でやって来たと想像している。

写真「鞍手町新北」

新北津跡

 

 倭人は、帯方の東南、大海の中に在り。
山島に依りて国邑を為す。旧百余国。
漢の時朝見する者有り。
 今、使訳通ずる所三十国なり。
 郡より倭に至るには、海岸に循したが
ひて水行し、韓国を歴へて、乍たちまち
南し乍ち東す。
 其の北岸狗邪韓国に至るには七千余里
なり。
 始めて一海を度る千余里、対海(対馬
国に至る。
 其の大官を卑狗と曰ひ、副を卑奴母離
と曰ふ。
 居る所は絶島、方四百余里可ばかり。
土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の
径こみちの如し。千余戸有り。良田無く、
海物を食ひて自活す。
 船に乗り南北に市糴してきす。
魏志倭人伝

 

 又、南一海を渡る千余里、名づけて澣海
と曰ふ。一大(一支)国に至る。
 官を亦卑狗と曰ひ、副を卑奴母離と曰ふ。
方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの
家有り。差やや田地有り、田を耕すも猶食
ふに足らず。亦南北に市糴す。

 又、一海を渡る千余里末盧国に至る。
四千余戸有り。山海に浜そひて居る。草木
茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕ふを
好み水深浅と無く皆沈没して之を取る。
魏志倭人伝

 

● 倭国大乱は、の子孫の女王国の子孫の狗奴國との戦いである

・・・ 女王国の敵国、狗奴國の王は、拘右(古)智卑狗である。その先祖の事を①自謂太伯之後とある。
   太伯は、姫氏であり、呉の最後の王の夫差の先祖である。したがって、狗奴國は、菊池川流域のハズである。
    ②昔夏后少康之子封於會稽にある會稽というのは、呉越同舟の越の国の都である。ここには、呉を
   倒した越王、勾践の先祖の事が書かれている。王の勾践の子孫と人々が、遠賀川流域にやって来た。
    遠賀川流域の越の民の国である女王国と太伯の末裔である菊池川流域の火国の人々の戦いが、倭国大乱で
   あったというのが私の説である。

② 夏后少康之子は越王勾践の祖
 倭人(倭国)は遠賀川流域
① 呉の太伯は「姫氏」夫差の祖
 狗奴国は菊池川流域菊鹿盆地
 魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有
奴 國
, 女 男 子 為 王 , 其 官 曰
右 智 卑 狗
, 不 屬 女 王 也 . 自 帶
方 至 女 國 万 二 千 餘 里 .其 俗 男
子 皆 點 而 面 文 . 聞其 舊 語 ,
① 自 謂 太 伯 之 後
② 昔 夏 后 少 康 之 子 封 於 會 稽
斷 髮 文 身 以 避 蛟 龍 之 吾 . 今
亦 文 身 以 厭 水 害.
文身點面猶稱太伯之苗
『魏略』中の火国の記録

 

 槐 志 曰、景 初 三 年、倿 女 王 遣
大 夫 難 升 米 利 等、獻 男 生 口 四 人、
女 生 六 人、 斑 布 二 疋 二 尺。詔 以
爲 新 魏 倭 王、假 金 印 紫 綬。
 正 始 四 年、倭 王 復 遣 大 夫 伊 聲
耆 振 邪 拘 等 八 人、上 獻 生 口 也。
景初之辰恭文錦之獻
帯方郡から倭・女王國に

 

地図「魏使のルート(水行十日)」
水行十日

● 末盧國は、宗像市の田熊石畑遺跡(今は、いせきんぐ宗像)である

Google Earth「宗像市田熊石畑遺跡」
宗像市田熊石畑遺跡(宗像高女跡)
末盧國はどこか 福永説

 

写真「遺跡全体」
写真「発屈」
写真「武器類」

田熊石畑遺跡

末盧國はどこか 福永説

 

Google Earth「田久松ヶ浦」

田久松ヶ浦

末盧國はどこか 福永説

 

「宗像大社にある縄文時代の地形」

推定 末盧國

 

写真「みあれ祭」

みあれ祭 宗像大社  神ノ湊

 

● 末盧國から伊都国、奴国、不彌国へ至り、邪馬台国へ

Flood Maps「魏使(末盧国から邪馬台国への陸行ルート)」
地図「魏使(水行ルート)」
宗像市釣川
伊都国へ  東南陸行五百里

 

Google Earth「末盧国・伊都国・奴国・不彌国・邪馬台国」

 

写真「宮若市磯光 天照宮」

 

写真「曩祖八幡宮(飯塚市)」

 

● 不彌国は、糸田町宮山大宮神社である

・・・ 不彌国は、糸田町だと解っていたが、  宮山の大宮神社 の境内から今山の石斧を偶然にも仲間が拾った。
   纏めて、15,6個出てきた。ここは、弥生時代の交易の場所である。糸田町の学芸員に報告してある。

    ここから、弥生時代の土器や銅戈(どうか)が9本出土している。その銅戈は、今は東京国立博物館が
   所蔵している。ここが、不彌国の跡だと考えている。

不彌国の候補地 大宮神社(宮山
写真「大宮神社(糸田町)」

 

「発掘『倭人伝』」下條信行氏原図
「立岩式石包丁と今山産の石斧の分布図」
不彌国の候補地 大宮神社(宮山

 

不彌国の候補地 大宮神社(宮山
写真「弥生土器」

上段左から
  弥生土器(鉢)
  弥生土器(壺)
  弥生土器(長頸壺)
下段左から
  弥生土器(甑底部)
  弥生土器(高坏)
  弥生土器(壺口縁部)

<中広形銅戈>

写真:「銅戈」

出土・国:福岡県田川郡
 糸田町下糸田字宮山出土
時代:弥生時代 後期
形状:長 38.7 関幅 11.8 
 身幅 7.0 茎長 2.9 茎幅 2.9
備考:重 512g