「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古代田川に天皇がいた2
■ 邪馬台国に至る末盧國、伊都國の津、不彌国と敵国・狗奴國の場所
● 西暦200年、卑弥呼共立から、240年の魏使が邪馬台(やまと)国にやって来るまで
● 南宋時代の魏志倭人伝にある對海國・一大國ではなく、對馬國・一支國である
・・・ 魏志倭人伝の前の史書、魏略に對馬國、一支國、末盧國、伊都國と書かれている。伊都國の長官が、
爾支(にき)とある。
● 魏志倭人伝に書かれている伊都国の津は、鞍手町の新北津である
・・・ 魏志倭人伝に伊都国には、一大率を置いて全国を取り締まっていた。魏使も最初の遣い以降は、
伊都国の津(港)までやって来て、後は倭人が女王との間を取り持ったと記録している。
その伊都国の津が、鞍手町の新北(津)であると思っている。
・・・ 新北津跡は、 鞍手町の新北 という交差点の近くである。写真の手前側、田んぼの境が、昔の海岸線で
ある。ここへ魏の遣いが船でやって来たと想像している。
● 倭国大乱は、越の子孫の女王国と呉の子孫の狗奴國との戦いである
・・・ 女王国の敵国、狗奴國の王は、拘右(古)智卑狗である。その先祖の事を①「自謂太伯之後」とある。
太伯は、姫氏であり、呉の最後の王の夫差の先祖である。したがって、狗奴國は、菊池川流域のハズである。
②「昔夏后少康之子封於會稽」にある會稽というのは、呉越同舟の越の国の都である。ここには、呉を
倒した越王、勾践の先祖の事が書かれている。越王の勾践の子孫と人々が、遠賀川流域にやって来た。
遠賀川流域の越の民の国である女王国と太伯の末裔である菊池川流域の火国の人々の戦いが、倭国大乱で
あったというのが私の説である。
● 末盧國は、宗像市の田熊石畑遺跡(今は、いせきんぐ宗像)である
田久松ヶ浦
推定 末盧國
みあれ祭 宗像大社 神ノ湊
● 末盧國から伊都国、奴国、不彌国へ至り、邪馬台国へ
● 不彌国は、糸田町宮山の大宮神社である
・・・ 不彌国は、糸田町だと解っていたが、 宮山の大宮神社 の境内から今山の石斧を偶然にも仲間が拾った。
纏めて、15,6個出てきた。ここは、弥生時代の交易の場所である。糸田町の学芸員に報告してある。
ここから、弥生時代の土器や銅戈(どうか)が9本出土している。その銅戈は、今は東京国立博物館が
所蔵している。ここが、不彌国の跡だと考えている。