「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古代田川に天皇がいた2
■ 卑弥呼の都も墓も田川にある
● 卑弥呼の都も墓も田川にあるのか?
● 川崎町の田原遺跡は卑弥呼の都である環濠集落の遺跡である
・・・ 卑弥呼の都である環濠集落の候補として、川崎町に田原遺跡がある。田川に吉野ヶ里遺跡以上の
環濠集落がある。
・・・ 田原遺跡から卑弥呼の時代の手焙形土器が出土している。
● 赤村の横枕・大原地区の遺跡群も弥生時代の大きな集落の跡である
・・・ 卑弥呼の都の思われる候補地のもう一つが、赤村の横枕・大原地区の遺跡群である。昭和52年の
発掘調査で弥生時代の大きな集落があると報告されている。
● 赤村内田の前方後円型地形は、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の大きさにピッタリである
・・・ 卑弥呼の都に近い場所にお墓があるとする時に、赤村の内田に大きな前方後円型の地形がある。この
後円部の直径が150mあり、魏志倭人伝に書かれている径百余歩とピッタリである。
・・・ この赤村内田の前方後円型地形が古墳と認定されたら、全国第2位の大きさになる。
大阪の大仙陵古墳であるが、造出(つくりだし)という瘤(こぶ)の部分がある。これは、古墳時代の
中期以降の古墳の形である。赤村内田の地形には瘤が無いので、初期の形である。
したがって、赤村内田の前方後円型地形が古墳であれば、古い古墳という事になる。
・・・ 前方後円型墳についての教科書の誤魔化しが下記の内容である。
前方後円墳は、平らな土地に土を盛って造ったと大林組の計算であるが、これが嘘である。日本全国に
ある前方後円墳は、自然の山の地形を利用して、堀を掘って形を成型しただけである。
古墳に近い形の山を成型しただけであるから、向きがてんでんばらばらである。これは事実ですね。
エジプトにあるピラミッドは、何かを参考にして同じ方向を向いて綺麗に並んで造られている。
平らな土地から造るのであれば、一定の方向を拝むようにして造るハズだ。天照大神(日神)を祭る
のであれば、東に向いて造れば良いのである。ところが前方後円墳の向きは、てんでんばらばらである。
だから、自然地形を利用して造ったというのが、私の意見である。
教科書から削られた「神武~神功」
《前期・中期の古墳》
最大の規模をもつ古墳は,中期に造営された大阪府の大仙陵古墳(仁徳
天皇陵古墳)で,前方後円形の墳丘の長さが486 mあり,2~3重の周濠を
めぐらしている。
さらにそのまわりの従属的な小型の古墳である陪冢が営まれた区域をも
含めると,その墓域は80haにもおよぶ。
(その築造には,全盛時で1日当たり2000人が動員されたとして,延べ
680万人の人員と,15年8ヵ月の期間が必要であったと計算されている。)
第2位の規模をもつ大阪府の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)などと
ともに,5世紀のヤマト政権の大王の墓と考えられる。
・・・ 1970年の写真では、赤村内田の前方後円型地形には、堀の跡が見える。前方部には、池の跡が見える。
・・・ 後円部と前方部の写真をつなぎ合わせた写真であるが、今でも土砂崩れの跡がある。
● 前方後円型地形に土砂崩れの跡が見られるのは、何故か
・・・ 赤村で、何が起こったか? 和歌から見えてくる。『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌にある。
明日香(飛鳥)川という川があって、その川がある日ある時に何か大土砂崩れが起こって、川の
流れが昨日まで淵であった所が今日は浅瀬になってしまったというトンでもない歌が一首だけ
残されている。
15、6年前に私は、赤村の今川が 90度東に折れ曲がった所 にやって来た時に、この和歌を
思い出した。それで犀川(今川)が、明日香(飛鳥)川だと気が付いた。
だから、赤村が、明日香(飛鳥)である。奈良県の明日香より古い明日香の土地である。飛ぶ鳥の
明日香である。八咫烏が、神武天皇からもらった領地の明日香である。
川が折れ曲がった結果、行き場を失って水が溜まった場所が、
行橋市の流末 という地名の所である。
この流末という地名が、『日本書紀』に書かれている。ここまで、日本書紀の書かれた地名が、田川・
京筑地区の地名とが一致している。
だから、私は、日本書紀の舞台は、豊前だと言っている訳である。
● 弥生時代と思われる土器片が、前方後円型地形の竹やぶから出土している
・・・ 高杯(たかつき)の土器の底の部分が、前方後円型地形の竹やぶの中から出土している。出土している
多くの土器片も弥生時代から古墳時代の物だと思っているが、調査が必要である。
・・・ 赤村内田の前方後円型地形が、卑弥呼の墓だと考えている。
● 崇神紀の箸墓伝説に出てくる大阪は、奈良県の大阪ではない
・・・ 日本書記 崇神天皇紀に箸墓伝説がある。大物主神は、三輪山の神である。大物主神の妻となった
倭迹迹日百襲姫の墓が、箸墓である。
・・・ 奈良県桜井市にある箸墓古墳であるが、崇神紀の箸墓伝説の最後の所に、「大坂に継ぎ登れる石群を
手渡しに渡すことが出来たら越すことができるかな」という反実仮想の和歌がある。
この倭歌にある大阪は、香春町の大阪山の所にある大阪であり、奈良県の大阪ではない。
・・・ 和歌にある大きな石群は、
御所ヶ谷神籠石 である。日本書紀の箸墓伝説では、墓は昼は人が作り、
夜は神が作ったとあり、その後にこの大きな石の和歌が出てくる。
日本書紀は、箸墓造りと御所ヶ谷神籠石造りの2つの話をごっちゃにしたようである。分離したら
簡単で、和歌にある石群の跡が、御所ヶ谷神籠石であった。
箸墓も昼は人が作り、夜は神が作ったとあるように当時としては、ものすごく巨大な墓だったと
いう事である。
という事は、この伝承が赤村内田の巨大な前方後円型地形と合っているように思えるので、これが、
箸墓である。
近畿説の学者たちが言うように、倭迹迹日百襲姫が魏志倭人伝に云う卑弥呼ではないだろうか。
ここでも日本書紀と魏志倭人伝に書かれた内容が一致している訳である。