「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古代田川に天皇がいた2
■ 呉越同舟の行き先は、菊池川流域と遠賀川流域
● 呉越同舟(孫子)の故事は、歴史史実と考えている
・・・ 滅んでしまった呉と越の人々が、何処へ行ったのか? 北部九州に来ている。
● 江戸時代に書かれた『松野連系図』の最初が、呉王夫差となっている
・・・ 呉王夫差の子の忌の注に、「孝昭天皇三年に来朝して、火国山門に住んだ」とある。
長江の辺りの国の滅ぼされた呉の人々と越の人々が、同じ舟に乗って北部九州に来たと考えている。
その呉の人々は、火国山門(熊本県菊池方面)に、越の人々は、遠賀川流域にやって来たと大胆な
仮説である。
● 古代、菊池川流域に「茂賀の浦」という大きな湖があった
● ジャポニカ種という稲と天然記念物のアイラトビカズラの原産地は、長江下流域である
・・・ 呉の人々は、菊池川流域(菊鹿盆地)にやって来たとする山門という地名が、『和名類聚抄』の肥後国
菊池郡の中に「迫間川流域」とちゃんとある。
ここの遺跡から籾痕(ジャポニカ種)のついた弥生土器が出土している。ジャポニカ種の稲というのは、
考古学でも明らかなように長江下流域から伝わって来たというのが定説である。
また、山鹿市に「アイラトビカズラ」という天然記念物の植物がある。このアイラトビカズラの原産地も
長江下流域である。
『松野連系図』にあるように、呉王夫差の子、忌と呉の人々と一緒に稲とアイラトビカズラが菊池川流域
に来ているという証拠であると思われる。
● 呉の人々がやって来た菊鹿盆地
● 遠賀川流域(古代は湾になっていた=古遠賀湾)が、倭国の中心である
・・・ 呉と敵対していた越の人々は、遠賀川流域に来たのではないだろうか?
● 越の人々がやって来た土地に遠賀川式土器が出現した
・・・ 紀元前300年頃に遠賀川式土器というのが、出現してくる。また、今は遠賀川に沈んでいるが立屋敷
遺跡からは、高床式建物の柱痕跡が発見されている。
これが、越の人々がやって来て、作った物だと考えている。
ここが、古事記・日本書紀でいう豊葦原中津国、豊葦原瑞穂(水穂)国だと思っている。古事記・日本
書紀の神代の巻の中心の土地、豊葦原瑞穂(水穂)国は、遠賀川流域である。田川であれば、彦山川流域で
あると思っている。
・・・ 土器時代の遺跡の地図に立岩式石包丁も出土している。
・・・ 遠賀川式土器は、わずか100~200年で東北地方の青森まで伝わっている。稲作もこのように
伝播した。
● 古事記・日本書紀に書かれた神々は、遠賀川式土器の出現時期と重なる
・・・ ここ遠賀川流域の遺跡と古事記・日本書紀の神代の巻の内容を重ねてみる。下記の『宋史 日本國
(王年代紀)』にあるように天御中主から始まり、天村雲尊に続き、赤字で示す伊弉諾尊、素戔烏尊、
天照大神尊、正哉吾勝勝速日天押穂耳尊と続く神が古事記・日本書紀にも登場する。
この神々も生きている時は、人間で王であった。古事記・日本書紀は、王であった人たちの記録である。
その王たちが、遠賀川流域・彦山川流域にいたと言い続けている。
その時代が、遠賀川式土器が出現した時代と重なる
● 伊弉諾尊は、遠賀・田川の神である
・・・ 伊弉諾尊が、日本書記 神武紀に自分の国について、下記のように言ったと書かれている。
日本(やまと)は、浦安の国と言っているが、奈良県(大和:やまと)には海が無い)。浦安という地名が
ありますか?
伊弉諾尊はどのような神かというと、「イサナ」というのは、古語で「鯨」の事である。縄文時代の
直方市天神橋貝塚からは、マッコウクジラの歯の装飾品が出土している。
・・・ 伊弉諾尊が、次に言った「細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国」とあるように、福岡県からの銅剣・
銅矛の出土数は圧倒的に多い。ここに伊弉諾尊がいた。奈良県(大和:やまと)からは、銅剣・銅矛が
1本も出土していない。
・・・ 古事記に伊弉諾尊は、妻の伊弉冉尊が亡くなった時の涙を流す。その時の涙から生まれ神の名前が、
「香山の畝尾の木の本に座す、名は泣澤女神」とある。
この香山(天香山)が、香春三ノ岳だと言い続けてきたというのは、古事記・日本書紀の神代の巻に
天香山からは金が採れた。銅が採れたと書かれている。奈良の香具山からは、金属は何も採れない。
香春三ノ岳からは、金も銅も採れた。
伊弉諾尊は、遠賀・田川の神という事になる。
天
香
山
耳
成
山
畝
尾
山
昭和十年の香春岳(倭三山)