「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 古代史フォーラム
  古代田川に天皇がいた2
 (平成30年3月21日(水)、於:福岡県立大学講堂)より

 古代田川に天皇がいた2

■ 天神降臨してきた天之忍穗耳命の痕跡が、赤村舟石に残されている

● 弥生人骨の分類が、天神降臨の史実を示している

・・・ 素戔烏尊の出雲王朝に次は、天神=天津神(あまつかみ)が侵略してくる。
    人類学の先生が九州の弥生時代の人骨を分類して地図上に示したもので、赤色のエリアが、渡来型と
   呼ばれる弥生時代の人々の人骨である。紫色と緑色のエリアは、古くから九州にいた人々だろうと思われる。
    天神降臨によって、九州の西と南へと追いやられた結果ではないだろうかと人類学で考えられている。
   これも半ば以上、事実である。

「弥生人骨」
天神降臨と弥生人骨
内藤芳篤(長崎大学 二〇〇五年没)

 

● 天忍穂耳命が祭られている英彦山は、天皇家と深く関わっている

・・・ 天神降臨した一人である天忍穂耳命が、英彦山神宮に祭られている。古事記・日本書紀では、天照大神の
   御子となっているが??

    その英彦山は、元々、日子山と呼ばれていたが、平安時代初めの嵯峨天皇の時に「日子」の字が「」に
   改められ、さらに江戸時代の中頃なって「」の一文字を与えて、現在の「英彦山」となっている。
    つまり天皇家は、18世紀になっても英彦山に天忍穂耳命が祭られていて、自分たちの先祖であらせられる
   という事を自覚されていた。
    天皇家が直接、字をあたえたという揺るぎない事実である。だから、天皇家は、自分たちの源が田川だと
   いう事をご存知のハズなんですよ。

英彦山神宮
・ 英彦山は、古来から神の山として信仰さ
 れていた霊山で、御祭神が天照大神(伊勢
 神宮)の御子、天忍穂耳命であることから
 「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれて
 いました。
・ 嵯峨天皇の弘仁一〇年(八一九年)(みことのり)
 によって「日子」
 の2文字を「彦」
 に改められ、次い
 で霊元法皇、享保
 一四年(一七二九
 年)には、院宣に
 より「英」の1字
 を賜り「英彦(ひこ)(さん)
 と改称され現在に
 至ってます。
「写真」

 

● 添田町の語源となったのが、「ソホリ(添)」の里である

・・・ 添田町の語源となったのが、「ソホリ(添)」の里である。この地に、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命が
   降臨する。

ソホリ(添)の里
正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命は饒速日尊
 (天照大神)の父

 日本書紀では忍穗耳命が天神でもある。
 この神は、田川の伝承では、英彦山から
 香春岳二ノ岳に降臨した神
である。
 二ノ岳では天之忍骨命
※ 岩石山=ソホリの山(添田町観光マップ)
 故、其の大年神、神活須毘神の女、
伊怒比賣に娶ひて生める子、大國御魂
神。次に韓神。次に曾富理神。次に白
日神。次に聖神。五の神。
(古事記)
ソホリの神 = 古代朝鮮語
       ソフル(京城・王都)の神

 

・・・ 赤村と旧津野村は、吾勝尊が降臨した土地であるから、吾勝野といわれていた。それが、景行天皇の
   時に南北に長い土地なので、上を津野、下を阿柯に分けたと田川の伝承に残っている。

天之忍穗耳命の降臨
 赤村はもと上赤、下赤、山浦、大内田、
小内田といった5カ村を合併したもので、
上赤、下赤、本村はかつて吾勝野といって
いた。
 太古において吾勝山上(現在の岩石山)
天祖吾勝尊が天降ったということから
起因して、この山の東麓一帯の野を吾勝野
と称したのである。

 それが景行天皇の時、田河の川上にいた
土蜘蛛麻剥の残賊を誅滅の後、この山上の
吾勝尊の神社に奉賽されて遠く東麓を望み
この麓は沃土南北に連なって狭く長いため
、自今二村を形成するがよかろうといわれ
たので、これより上を津野といい下を阿柯
と称した。
 のち阿柯を上赤、下赤の二村に分けた。
(田川産業経済大鑑
   三七三頁~三七五頁)

 

● 赤村石舟に天押穂耳尊の降臨を示すモニュメント、天の岩船が残されている

・・・ その赤村に天忍穂耳命、天神の降臨した痕跡を見つけた。舟石である。この天神たち、「(あま)」と
   いう字がつく人たちは、元々は、海人(あま)である。
    海人族の人々が、英彦山から赤村まで降りて、侵略に成功した。彼らは、当然、木の舟でやって来たが、
   モニュメントは石で造ったらしい。古事記・日本書紀に出てくる「天の磐船」とか「天の鳥船」といわれる
   舟を模した石造りの舟のモニュメントである。
   

    赤村の舟石という場所を地元の人に案内してもらい探した。そこに石の先の部分を割って落して削り舟の
   形の舟の形をしている石がある。
    2000年以上前の弥生時代に天忍穂耳命が正にここに降臨したというモニュメントが残されている。
   つい最近まで祭られていたようである。
        

正哉吾勝勝速日天押穂耳尊

赤村舟石

「写真」
「写真」

 

・・・ 舟石のすぐ下にある貴船神社という石の祠の中にトライデントといわれる三つ又の戈が祭られていた。
   制海権の象徴である海人族の侵略の跡が、山の中の赤村で2000年の長きに渡り、ずーっと祭られていた。    

「写真」
正哉吾勝勝速日天押穂耳尊
舟石下の貴船神社に祀られた
     トライデント(三つ又の戈)
制海権の象徴、海人族の侵略の跡