「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
古代田川に天皇がいた2
■ 天神降臨してきた天之忍穗耳命の痕跡が、赤村舟石に残されている
● 弥生人骨の分類が、天神降臨の史実を示している
・・・ 素戔烏尊の出雲王朝に次は、天神=天津神(あまつかみ)が侵略してくる。
人類学の先生が九州の弥生時代の人骨を分類して地図上に示したもので、赤色のエリアが、渡来型と
呼ばれる弥生時代の人々の人骨である。紫色と緑色のエリアは、古くから九州にいた人々だろうと思われる。
天神降臨によって、九州の西と南へと追いやられた結果ではないだろうかと人類学で考えられている。
これも半ば以上、事実である。
● 天忍穂耳命が祭られている英彦山は、天皇家と深く関わっている
・・・ 天神降臨した一人である天忍穂耳命が、英彦山神宮に祭られている。古事記・日本書紀では、天照大神の
御子となっているが??
その英彦山は、元々、日子山と呼ばれていたが、平安時代初めの嵯峨天皇の時に「日子」の字が「彦」に
改められ、さらに江戸時代の中頃なって「英」の一文字を与えて、現在の「英彦山」となっている。
つまり天皇家は、18世紀になっても英彦山に天忍穂耳命が祭られていて、自分たちの先祖であらせられる
という事を自覚されていた。
天皇家が直接、字をあたえたという揺るぎない事実である。だから、天皇家は、自分たちの源が田川だと
いう事をご存知のハズなんですよ。
● 添田町の語源となったのが、「ソホリ(添)」の里である
・・・ 添田町の語源となったのが、「ソホリ(添)」の里である。この地に、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命が
降臨する。
・・・ 赤村と旧津野村は、吾勝尊が降臨した土地であるから、吾勝野といわれていた。それが、景行天皇の
時に南北に長い土地なので、上を津野、下を阿柯に分けたと田川の伝承に残っている。
● 赤村石舟に天押穂耳尊の降臨を示すモニュメント、天の岩船が残されている
・・・ その赤村に天忍穂耳命、天神の降臨した痕跡を見つけた。舟石である。この天神たち、「天(あま)」と
いう字がつく人たちは、元々は、海人(あま)族である。
海人族の人々が、英彦山から赤村まで降りて、侵略に成功した。彼らは、当然、木の舟でやって来たが、
モニュメントは石で造ったらしい。古事記・日本書紀に出てくる「天の磐船」とか「天の鳥船」といわれる
舟を模した石造りの舟のモニュメントである。
赤村の舟石という場所を地元の人に案内してもらい探した。そこに石の先の部分を割って落して削り舟の
形の舟の形をしている石がある。
2000年以上前の弥生時代に天忍穂耳命が正にここに降臨したというモニュメントが残されている。
つい最近まで祭られていたようである。
・・・ 舟石のすぐ下にある貴船神社という石の祠の中にトライデントといわれる三つ又の戈が祭られていた。
制海権の象徴である海人族の侵略の跡が、山の中の赤村で2000年の長きに渡り、ずーっと祭られていた。