「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 宮若歴史文化講座 伊予の熟田津の石湯
 (令和元年六月一三日(木)、主催 宮若市の図書館友の会 、於 宮若リコリス(宮若市図書館) )より

 伊予の熟田津の石湯

講演時のパワーポイントのページタイトル別で紹介です。

福永晋三
記紀万葉研究家
「神功皇后紀を読む会」主宰
於 宮若リコリス
   (宮若市図書館)
宮若歴史文化講座
令和元年六月一三日(木)
 伊予の熟田津の石湯 

 

YouTube動画「令和元年6月13日(木)  伊予の熟田津の石湯 」はこちらからご覧になれます。
 尚、リンク先は短篇動画6本の再生リスト一覧です。

* 万葉集八番歌

・『万葉集』の「ニギタ津」の歌は、天皇が伊豫湯宮、伊豫熟田津石湯行宮に行かれた時の歌であり、
 額田王の歌となっているが、左注に天皇の御製であると書かれている。
  伊豫と書かれているので、愛媛県松山市の何処かの港に泊まられたことになっている

* 通説の「伊予の石湯」

・伊佐爾波神社が作られているが、「ニギタ」の地名が松山には無いので「ニギタ津」が何処かは
 ハッキリしない。

* 聖徳太子 道後温泉碑

・『伊予国風土記逸文』に「温泉碑」、「上宮聖徳皇子」と出てくるので、松山市道後温泉には
 「聖徳太子 道後温泉碑」が建てられている。その碑には、逸文の原文が白文のまま刻まれている。

・『伊予国風土記逸文』の原文が、「夷與の村」とあり、伊予国の「イヨ」と字が違う

* 熟田津はどこか

・天武天皇の時の白鳳地震で、伊予の石湯は埋もれて出なくなった。松山の道後温泉は、今も湯が豊富に
 出ている。

* 『新分郷』の再発見

・『和名鈔』の中の鞍手郡郷名 六の一つに新分(爾比岐多:にいきた)がある。
 また、『鞍手郡誌』に「新分郷」は西川村新北の地とある。

* 新北に津があった時

・九州大学の名誉教授 山崎光夫氏の遠賀川流域の調査し報告がある。

・遠賀川流域は、古代は湾(古遠賀湾)になっており、新北にが存在した
 『日本書紀』神武天皇紀に伊弉諾尊の自国を表現した言葉がある。

・『魏志倭人伝』に書かれている伊都国の津が、新北津である。

・伊都国の津の長官 爾支(にき)がいたのが新北津の直ぐ隣にある鞍手町中山の剣岳である。

・剣岳に居た伊都国の津の長官 爾支(にき)が倭(やまと)国の王、日本武尊である

・神功皇后が、仲哀の仇討に出かける前に詠われた『万葉集9番歌』であり、
 ニギタ津の歌の8番歌の次にある。これも神功皇后の歌である。

・「神功皇后の征西」筑紫末羅県の勝門比売の征伐は、ニギタ津(鞍手町新北)から出航している。

・『万葉集8番歌』の歌の解釈を遠賀川の水深図から示す。

* 伊豫について

鞍手郡に「伊豫」という地名があった。贄田(にげた)物部氏は、饒速日尊が従えた天物部氏である。
 「伊豫」の地名は、のちに四国の土地で付けられた地名である。
 これで、「伊豫熟田津」まで明らかになった。次に石湯(温泉)は何処か?

* 伊豫の石湯探し

・文献と実地調査から伊豫の石湯を探す。『源氏物語』の注釈書である『河海抄』に「温泉記」というのが
 書かれている。

* 風土記逸文の温泉碑

・『風土記逸文』の「温泉碑」に書かれている椿の木に花が咲いて、実が生っていると書かれている。
 本当に椿の木なのだろうか?

* 伊豫の石湯の実景描写

・文献に書かれた実景描写をまとめると、松山の道後温泉には当てはまらない。現在、湯が出ていない事が
 条件です。

* 伊豫の石湯を犬鳴川八木山川水系に探す

・鞍手郡に伊豫があり、熟田津が鞍手町の新北であれば、所田温泉や大伴旅人も浸かったという脇田温泉も
 近くにあり、犬鳴川・八木山川周辺を真剣に探した。千石辺りに目を付けていた。

* 伊豫の石湯は千石峡だった

・『風土記逸文』の「温泉碑」、『河海抄』の「温泉記」に書かれた描写を実地調査した。

・『伊予国風土記逸文』の舒明天皇が、木にとまった鵤と此米鳥を養うために稲穂掛けたとの一説がある
 穂掛神社があり、神社にあるシイの木の枝に稲穂がどれくらい掛けられるか試したら千石掛けられたので
 千石というと語源説にある。

・『伊豫国風土記逸文』に石湯に5度行幸された天皇のことが書かれている。

・『伊豫国風土記逸文』に書かれている大已貴命と少彦名命を祀る限神社がある。また、「大分の速水の湯」と
 書かれているが、筑前大分に大分八幡宮もある。

・石湯に最初に行幸された景行天皇は、鞍手の土地には来ていない。新北津の隣、剣岳にいたのは、日本武尊
 ある。実際に石湯にきたのは、大和武尊である。

・石湯に2度目に行幸されたとある仲哀天皇と神功皇后の伝承が、『鞍手郡誌』に残されている。笠松神社である。

・石湯に3度目に行幸されたと上宮聖徳皇子は、聖徳太子ではない。法隆寺釈迦三尊像の光背銘に刻まれた筑紫年号
 「法興三十一年」に亡くなった人物である。

・伊豫の石湯(千石)にきたのは、  『隋書 俀國』 に駆られている「日出處天子」阿毎多利思比孤である。

倭国東朝の天皇(舒明天皇、天智天皇)は、田川郡から鞍手郡の千石(伊豫の熟田津の石湯)まで来てお湯に
 浸かった。

「温泉碑」に書かれた椿の木・椿の実は、チャンチンモドキだった。

・「伊豫の熟田津の石湯」は、復活した。「温泉碑」に書かれている「神の井」の復活だ。

・「熟田津」を詠った歌が『万葉集』に3首ある。8番歌の他に山部赤人が詠った322番歌と323番歌である。

※ 「伊豫の熟田津の石湯」は、千石峡にあった。

・神代から続いた名湯なんです。ぬるいお湯なんです。ぬるいから良いんです。だから、色々な病気の効能がある。
 意外と温泉の効能は、低温の方が良い。ゆっくりと浸かれる。
 景色も良かった。  千石キャンプ場 の前の岩場にぬるいお湯が流れていた。処どころにお湯を貯めておけば、
 だれでもそのお湯に浸かれた。