「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」
▶ 『鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」』(令和2年2月23日)の9分割の講演動画の
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戦後史学から脱却せよ&倭国=豊国説‼
① GHQの占領政策から解放されること。
② 戦後史学の「邪馬台国畿内説」や「大和王朝近畿説」から
解放されること。
③ 筑豊・田川の神々を尊重し、筑豊の古伝承を大切にすること。
④ 筑豊の人々が自分と自分の土地に自信と誇りを取り戻すこと。
※ 筑豊が元気になれば、古代史が正しい姿に戻る!
倭国=豊国説(福永説)
◆ 記紀は豊国中心の史書(倭国~日本国の歴史)
◆ 英彦山から沖ノ島までの遠賀川流域こそ倭国(邪馬臺国)
◆ 神武・卑弥呼・神功・天智は豊国側の王
◆ 倭の五王と阿毎多利思比孤(日出処天子)・天武は筑紫側の王
◆ 壬申の乱も豊国での戦い
・・・ 英彦山神宮の奉幣殿は、元は霊仙寺の大講堂であった。この中にあった仏像は、全部退けさせられて、
神道の形に切り替えられた。
元々は、神仏習合だったので、大講堂があってすぐ隣に鳥居がある。向かって左側の石段のそばには、
今でもまだ釣鐘が掛かっている。
▶ 田川の語源は鷹羽
◆ 景行天皇が、「鷹羽の国」と名付けた
◆ 景行天皇が田川から北九州にへ行ったことが、『日本書紀』に書かれている
◆ 日本書紀 景行天皇紀』にある「高羽」は、「豊前国田川郡」である
◆ 『田川郡誌』にある景行天皇の田川の伝承は、「鷹羽」の表記である
▶ 鷹羽の神々の正体
◆ 添田町中元寺の成瀬神社の伝承に六月晦大祓に出てくる瀬織津姫の女神も登場する
◆ 英彦山の真ん中に祭られているのは、瀬織津姫であり、古事記の冒頭に出てくる天之御中主神である
◆(訂正)大物主(=日子遅の神)が祭られているから日子山である
◆ 皇紀元年に当る紀元前660年頃に大物主が倭国の国造りを始めた
◆ 伊弉諾・伊弉冉の国生みは、大物主の倭国造りの書き換えである
◆ 大物主と大国主は、同一の神では無い
◆ 大物主の別名が、八千矛の神であるように遠賀川流域から多数の銅矛が出土している
◆ 大物主の子孫が治める土地へ伊弉諾尊が長江下流域の越から入ってきた
◆ 大倭国における最初のクーデターが、素戔嗚尊の八俣大蛇退治である
◆ 素戔嗚尊と天照大神の誓約は戦いの場面であり、素戔嗚尊は天照大神に殺された
◆ 神武天皇は菊池・山鹿から日向に出て、豊予海峡を北上し第二次東征を開始する
◆ 神武東征の菟田の穿邑は、川崎町の天然記念物である中元寺川の甌穴群の辺り
◆ 神武天皇が「東征成就を天祖に祈願」した「天磐盾」は、『射手引神社社伝』に立岩とある
◆ 東征が成就した神武天皇は、大物主神の子孫の娘を正式に妃として迎える
◆ 崇神天皇は大田田根子を探し出し、大物主神を正しく祭った
◆ 共立されて女王となった卑弥呼の即位年は、西暦200年である
◆ 邪馬臺国は、狗奴国王卑弥弓呼との戦いに敗れ、卑弥呼は「以死」となる
◆ 赤村内田にある前方後円型地形が、殉葬墓である卑弥呼の墓ではないか
◆ 狗奴国王卑弥弓呼が景行天皇であり、景行天皇は草薙剣を一度も佩いていない
◆ 神功皇后は豊国を攻め落とし、川崎町大海に宮殿を構えた
・江戸時代まであったとされる帝階八幡神社の由緒に応神天皇のショウケ越も驚きがある
・和布刈神社(めかりじんじゃ)の社伝では、天照大神の荒魂と瀬織津姫は、同じだとある
◆ 継体天皇は、筑紫君磐井を滅ぼした後に出された詔勅の伝統は、現在に引き継がれている
・詔勅の中に「帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。」(帝王は自ら耕して農業を勧め、
后妃は自ら養蚕して桑を与える時期を勧めるべきだ)とある
◆ 欽明天皇の時代に崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が始まる
◆ 仏法を信じなかった敏達天皇の時に大物主神が日子山から移された
◆ 仏に祈り、物部守屋に勝利した蘇我馬子が四天王寺を建てた
◆ 唐軍の捕虜となっていた筑紫君薩野馬は、帰朝後に天智天皇の皇太弟となる
◆ 国号が「日本」となった天智天皇の時に豊国には、「中元」という年号があった
◆ 「鷹羽」の字と「田川」という字にかえたのは、壬申之大乱に勝利した天武天皇である
◆ 筑紫君である天武天皇であるから、草薙剣に祟られた
◆ 天智天皇の倭国東朝が倭国本朝を併せたことを旧唐書を証明する
▶ おわりに
定説・通説に惑わされてはならないが、かと言って、福永に惑わされてはいけない。皆さん自分の
力で考えて下さい。
筑前・豊前の王朝があり、かつてそこにお寺が建てられていた。
何故か解らないが、律令時代に筑前・豊前の土地からみんな消えた。先ほどの椿市廃寺を含めて
廃寺と呼ばれている。
廃寺の数が多すぎる。律令時代は、仏教を国教(王朝が国の宗教)した時代である。福岡県だけ
何故、途中でお寺を廃止しないといけないのか?
この謎を解いた考古学者の方は、一人もいません。私が、文献の読み取りと僅かの知識で解き明かした
のが、お寺が解体されて、近畿に持って行かれたである。
法隆寺や三十三間堂、法起寺も福岡から近畿に持っていかれた。だから、福岡の廃寺跡からは、
礎石と瓦は出土されるが、木材の一片も出土されない。解体されて持って行ったからである。
奈良・京都に建っているお寺は、元々は、豊前・筑前に建っていたお寺である。蘇我馬子や
日出ずる處の天子が建てたお寺かも知れない。
廃寺となった時期が解る。
日本王朝の東遷時期
遺跡名
旧郡
所 在 地
調 査
時 期
天台寺跡
田河
田川市大字伊田675
1985~88
7末~9後
椿市寺跡
京都
行橋市大字福丸
1977~79、1990
7末~9前
菩提寺跡
京都
勝山町大字松田2143
1987
8後~
上坂寺跡
仲津
豊津町大字上坂
1983
7末~9前
木山寺跡
仲津
犀川町大字木山591
1974
8初~
国分僧寺跡
仲津
豊津町大字国分
1974・85~87
756年頃~
国分尼寺跡
仲津
豊津町大字徳政
1992
8後~
垂水寺跡
上毛
新吉富村大字垂水
1973~75、1993
7末~8後
相原寺跡
下毛
中津市大字相原
1988~
7末~
塔ノ熊寺跡
下毛
三光村大字西秣
1988・90・91
8中~末
法鏡寺跡
宇佐
宇佐市大字法鏡寺
1971・75・76
7末~9前
虚空蔵寺跡
宇佐
宇佐市大字山本
1954・71
7末~
小倉ノ池寺跡
宇佐
宇佐市四日市上元重
8初
弥勒寺跡
宇佐
宇佐市大字南宇佐
1954~60・81~88
725年頃~
平安時代の平城天皇の陵が、平城京跡の一角に市庭古墳としてある。
宮内庁は、市庭古墳をいまだに平安時代の平城天皇の墓としている。5世紀の前方後円墳を破壊して、
平城京が造られている。
私の仲間は、平城京は8世紀の半ばまで福岡県の桂川町にあったと言われている。私は、支持している。
5世紀の前方後円墳が何故、平安時代の平城天皇。日子山を彦山にいう字に変えた嵯峨天皇の息子である
平城天皇のお墓なんですか?
みなさん矛盾を感じませんか。
怖い話かもしれませんが、平安京も平城京も8世紀半ばに福岡にあった宮殿が解体されて、同時に
組み立てられた。
【平城天皇陵(市庭古墳)】
平城宮跡最寄りの古墳は「謀反」を起こした上皇の御陵
"しかし実際は平城宮の建設を行う際に、前方後円墳であった古墳の「方形」部分、
南半分にあたる部分を掘削・破壊しその跡地に別の施設を建設したと言われて
おり、「円墳」のように見える事実は、平城京建設時の土木工事に由来するもの
と考えられています。"