「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


※ 鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」
  第15回古代史講座 古代田川を解き明かす
 (令和2年2月23日(日)、主催:田川広域観光協会古代史研究会、於:OTOレインボ―ホ―ル)より

 鷹羽の神々の盛衰に見る「王朝交替」

■ 田川の語源は鷹羽

● 景行天皇が、「鷹羽の国」と名付けた

・・・ 『田川郡誌』に採られている「我鹿八幡神社古縁起」の原文に返り点を打ちった、その訳文である。
   大正時代に出来た田川郡誌に田川の語源がハッキリと書いてある。私も早くに気付いていたが、しかし、
   それが何を意味するかというのに、二十数年かかった。
    「豊前寶鑑」という本にまだたどり着けないが、同じように景行天皇が、「鷹羽」と名付けたとある。
   『日本書紀』の景行天皇は、今から1800年前である。その時にすでに「鷹羽の国」と景行天皇が
   名付けている。
    私は、それ以上に古いと考えている。

田川の語源は鷹羽
 景行天皇の話である。
 (十二年)九月に陣を吾勝山(岩石山)に移し、田河
の残賊を征伐しようとする。賊は風雨に乗じ、皇軍を夜
襲した。が、皇軍は賊を追撃し、残らず誅滅した。
 天皇は大いに喜んでこうおっしゃった。「良いことだ
なあ。この国は土地が肥沃で、人民も富み栄えている、
今からこの国を名付けて鷹羽の国というが良い。」と。
おそらく鷹のすぐれて不思議な力に関連するのだろうと
いう。
 景行天皇云々。九月移 陣于吾勝山 、以征 
田河之残賊 。々乗 風雨 、夜襲 皇軍 。
皇軍追撃、盡誅滅焉。天皇大喜云々。良哉、此
國土地沃壌、百姓殷富、宜 自今號 此國 謂 
鷹羽 也矣。蓋因 鷹之靈異 也云々。

(我鹿八幡神社古縁起)
 景行天皇云々御饋聞食時に御玉宇伎(盃のこ
と)に鷹の羽落入れり。天皇大喜曰吉瑞也とて
其の處を鷹羽と名附け給ふ
(豊前寶鑑)

 

● 景行天皇が田川から北九州にへ行ったことが、『日本書紀』に書かれている

・・・ 日本書紀に書かれている景行天皇が、賊を征伐していった土地をGoogleマップ上に記した。
    これを見ると明らかに、景行天皇は、田川から北九州へと北上している。
    大和朝廷が、本当に奈良県に興ったとして、当時の朝廷の中央官僚たちが、こんなに田川に詳しい
   のですか?これは、田川に書かれたから詳しいのである。

田川の語源は鷹羽

景行帝の北伐路(一)

 唯有 殘賊者 、一曰 鼻垂 、妄假 名
號 、山谷響聚、屯 結於菟狹川上 。二曰 
耳垂 、殘賊貪婪、屢略 人民 、是居 於
御木川上 。三曰 麻剥 、潛聚 徒黨 、
居 於高羽川上 。四曰 土折・猪折 、隱 
住於緑野川上 、獨恃 山川之險 、以多掠 
人民 。
(日本書紀
  景行天皇)

Google Earth「宇佐~田川・香春」

 

● 『日本書紀 景行天皇紀』にある「高羽」は、「豊前国田川郡」である

田川の語源は鷹羽
① まず、日本書紀の景行紀において「高羽」の
 表記が現れ、江戸時代以降、諸家いずれも「豊
 前国田川郡」とすることに異論はない。
② 土折猪折については、田川市猪膝の「大刀洗
 の井戸」に「日本武尊が猪折を退治し、太刀に
 着いた血を洗った」との伝承がある。
  麻剥が登場せず、賊を撃ったのが景行天皇だ
 とする書紀との食い違いが目立つ。
③ また、土折猪折が隠れた「緑野川上」につい
 ても、添田町の伝承には「彦山川上流の深倉川
 のあたりに鼻垂彦と耳垂彦という者が住んでい
 て、大きな勢力を持ち、大和の朝廷に逆らって
 いた。景行天皇は、熊襲をはじめとする九州の
 勢力をおさえるために、田川にやって来て鼻垂
 彦・耳垂彦の軍を破った。そのとき、今の深倉
 川は血に染まり、血みどろ川と呼ばれるように
 なった。
  後世になって『みどろ』が緑に転訛して緑川
 の名になったという」とあり、これも日本書紀
 とは相当に記述が異なる。

 

● 『田川郡誌』にある景行天皇の田川の伝承は、「鷹羽」の表記である

・・・ 今の歴史学は、景行天皇は、架空の存在で神話の扱いであるが、ここ田川の土地では、ほぼ実在の
   存在である。

    我鹿八幡神社古縁起にある鷹之靈異」の一節から英彦山の「鷹に化身した神々」にいったが、
   「鷹羽の神」の存在については、日本書紀と奈良県には全く見当たらない。ハッキリ言って、日本書記
   からは、消されている。

田川の語源は鷹羽
④ 田川郡誌においては、同じ景行天皇の同様の
 伝承に、「鷹羽」の異なる表記があり、しかも
 「田川」の起源とされている。
  さらに、「吾勝山」という現地でしか分から
 ない地名も記されている。
  したがって、田川の現地伝承は日本書紀の成
 立後に創作されたものとは思われない。
  なぜなら、景行天皇の故事は3世紀の卑弥呼
 の死後のことと推測され、日本書紀の成立は7
 20年のこととされているからだ。
  仮定として、現地の景行天皇の記録「甲」が
 成立し、やがて、日本書紀景行紀「乙」と我鹿
 八幡神社古縁起「丙」などとに分かれたのでは
 ないだろうか。
  因みに、「田川郡誌」「鞍手郡誌」「京都郡
 誌」「企救郡誌」の随所に景行説話が多数残さ
 れている。
⑤ 「鷹之靈異」の一語から英彦山の「鷹に化身
 した神々」に思いを馳せた。
  日本書紀と奈良県には全く見当たらない存在
 でもある。