「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-

※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
 (令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より

■ 三角縁神獣鏡は、「鯷呉合作鏡」である

 今回の講演のタイトルに「神功の鏡」と書きました。三角縁神獣鏡は、間違いなく近畿地方から出ます。今まで述べてきた東鯷国から出ています。

 東鯷国は、孫権の命令で呉の兵士が1万にもやって来た土地である。その土地で、何人かの兵士が脱走している。現在の丹後の土地である。
 呉に帰らず、平和なこの土地で脱走した兵士の中に鏡職人がいたようである。

 だから東鯷国(近畿地方)に三角縁神獣鏡が、卑弥呼と同時代に出現している。これは、確かであるので、三角縁神獣鏡が、卑弥呼がもらった鏡ではないかと思っても仕方がないくらいピッタリである。

 古田史学にいた藤田友治(早くに亡くなられた)という方が、卑弥呼がもらった鏡は、三角縁神獣鏡とは違うという事を言った。

 

● 藤田友治氏が、三角縁神獣鏡を分析した結果

三角縁神獣鏡の誕生
 藤田友治氏は、孫権伝の記事から三角縁神獣鏡
の出現までの過程を、「卑弥呼の鏡と三角縁神獣
鏡」(新・古代学第4集)において、次のように
分析した。(筆者の要約による。)
第一段階
 中国で製作された鏡を輸入した段階。舶載鏡の
段階。前漢鏡・後漢鏡、魏鏡・呉鏡の別がある。
第二段階
 舶載鏡に魅せられた倭人たちが先達の技術を持
った渡来人と合作して製作した段階。神仙思想や
宗教観を表現した神獣鏡、画像鏡は呉から亡命し
渡来した呉の工匠と一緒に鏡作神社などの拠点地
で倭人と合作した鏡である。倭人の好みで、本国
(中国)にはない傘松文様などの意匠を入れたり
した。この段階を従来説は認めず、舶載鏡として
魏鏡の中に入れ「卑弥呼の鏡」として扱ったため、
百枚をはるかに超える枚数となり、説明不能の謎
となってしまった。
第三段階
 呉の工人の二世・三世による鋳造の段階。水準
が低下した。従来説は、この段階の鏡を仿製鏡と
いい、国内産とした。

 

三角縁神獣鏡の誕生
 以上の三段階を、藤田氏は具体的には、石切神
社の穂積殿の宝物である鏡群に適用され、見事な
証明を得られたのである。
 藤田氏は、第二段階のいわゆる三角縁神獣鏡を
「倭呉合作鏡」と表現された。
 筆者は、自己の仮説の流れから、これを「鯷呉
合作鏡
」と置換せざるを得なかった。
 石切神社。大阪府東大阪市東石切町一―一にあ
る式内社の正式名が石切剣箭(つるぎや)神社であり、その祭
神こそ、物部氏の祖の饒速日(ニギハヤヒ)命と可美真手(ウマシマデ)命なの
である。
ニギハヤヒについては、以前に述べたとおり、倭
奴国の建国の祖であり、天神降臨の偉業を成就し
た神である。
 しかも、この神は古遠賀湾沿岸に都を定めたこ
とも述べた。
 前漢代、紀元前一四年のことである。

 古田先生が東鯷国をきちんと比定できなかった。最初、東鯷国は銅鐸圏の国かなとおぼろげながら言っていたが、途中から何処にあるか解らないと言い始めた。

 だから、古田先生のお弟子さんである藤田友治氏も、近畿地方の国を東鯷国だとは、思わなかったのである。
 また、神武天皇も近畿の大和に東征したと考えていたから、三角縁神獣鏡を「倭呉合作鏡」と表現された。

 私は、倭国=豊国説であるから、近畿地方には『三国志呉書』にある亶州は、東鯷国である考えているので、三角縁神獣鏡は「鯷呉合作鏡」という表現に置き換えざるを得なかった。

 藤田友治氏が、見出した石切神社であるが、その祭神が物部氏の祖である饒速日(ニギハヤヒ)命と長男と思われる可美真手(ウマシマデ)命である。

 饒速日命の跡継ぎである天香語山命は、むしろ末っ子である。末っ子が親の面倒を見て跡継ぎになるというのが、こちら遠賀川流域の海人族の伝統のようである。

 だから年上の兄たちは、他所の土地へ出かけて行って開拓することが、主流だったようである。一番幼い末っ子が、親元で最後に育って親が年老いた頃に成人して、その親の面倒を見る。
 これが、跡継ぎとなっていくという『古事記』『日本書紀』の世界で末子相続とよく言われる。これは、九州の海人族の伝統のようである。

 藤田友治氏の分析は、大阪市の石切神社にある沢山の三角縁神獣鏡を実際に顕微鏡レベルまで綿密に観察して出された結論である。

 

三角縁神獣鏡の誕生
 三角縁神獣鏡の中に、日本考古学界において
「笠松文様」と呼ばれる文様が、厳然とある。
 下図の場合、左側には、従者が主人と思しき
人物(東王父、仙人説等あり)に、「松傘」を
捧げているように見える。
 右側には、巨(矩、さしがね)を銜えた神獣
が、その脚に「松笠」を捧げ持っている。
 三角縁神獣鏡の研究史の新しい方から云えば、
例えば、小野山節氏「三角縁神獣鏡の傘松形に
節・塔二つの系譜」に云う「傘松形」であり、
「旌飾の笠松文」である。
 また、奥野
正男氏の研究
によれば、中
国鏡には笠松
文がないとの
こと。
権現山五一号墳二号鏡
絵「三角縁神獣鏡の模様」

 今年亡くなられた奥野正男氏は、弥生時代の鉄の遺物は、九州(福岡県、熊本県、大分県)から非常に多く出土していると早くから証言されていた方である。
 その方の研究によれば、やはり中国鏡には笠松文がないとの事である。

 三角縁神獣鏡は、王仲殊氏が言われているように、倭国の国産鏡である。私のようにもっとハッキリ言ってしまえば、東鯷国の人と呉の工人が協力して作られた鏡である。
 だから、私は、新しい言葉を作ったが、「鯷呉合作鏡」というのである。

 

● 神功の出身は、三角縁神獣鏡が分布する東鯷国

神功皇后の系譜
古事記「神功皇后の家系図」

 神功皇后の系譜であるが、開化天皇の子、日子坐王が丹波方面に出かけていったという記録が、風土記に残っている。
 この日子坐王の父方の系譜の息長宿禰王が、息長帯比売命(神功皇后)の父親である。息長帯比売命の母親、葛城高額比売の父の兄弟に多遅麻毛理(田道間守)がいて、その先祖を遡ると天之日矛(天日槍)である。

 その天之日矛が、ひょっとして都怒我阿羅斯等ではないかと言った。その敦賀の氣比神宮内の一角に角鹿神社という都怒我阿羅斯等を祭る神社が厳然とある。
 そして、何故か都怒我阿羅斯等を祭る神社が、田川郡香春町にもある。現人(あらひと)神社である。

 だから、卑弥呼の時代から浦島太郎を含めて、香春(豊前)と東鯷国(丹波・丹後の土地)との繋がりが物凄く深い。

 その丹後方面の土地から開化天皇の5世の孫である神功皇后が、豊国へやって来た。

 

卑弥呼の鏡は後漢式鏡
 以上のような緊張した国際情勢下に、倭国の卑
弥呼は魏の景初二年(二三八)に、帯方郡に使を
送り、翌正始元年(二四〇)、魏使を伴い、数々
の絹織物・五尺刀二口・銅鏡百枚とを携え、使は
洛陽の都から帯方郡経由で帰着した。
 魏志倭人伝の里程記事はこのときのものである。
卑弥呼が下賜された「銅鏡百枚」はおそらく後漢
式鏡と思われる。
 出土分布から判断しても、福岡県内に女王国は
あったと推測される。
 魏の武帝とされる曹操は、後漢朝の丞相であっ
た。
 子の曹丕が後漢の献帝を廃し、洛陽に都し、国
号を魏といった。黄初元年(紀元二二〇年)のこ
とである。
 したがって、卑弥呼が下賜された銅鏡百枚は、
後漢式鏡であっておかしくはない。

 結論を言うと、卑弥呼の鏡は後漢式鏡である。

 

高島忠平氏の見解
 季刊『邪馬台国』二〇〇一年夏号に、「銅鏡百
枚」について高島忠平(佐賀女子短期大学教授)
の書いた文章が掲載されている。
 卑弥呼が魏の皇帝から下賜されたとされる百枚
の銅鏡
* 方格規矩鏡・内行花文鏡・盤龍鏡など後漢の
 官営工房系の、確実な舶載鏡である。
* 三角縁神獣鏡は卑弥呼の銅鏡の主役にはなれ
 ない。
* 画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡は、中国南部、
 主として呉の国の地域で製作された「神獣鏡」
 の系統に属する。
 したがって、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡の主
 たる分布領域である近畿は、呉の国との結びつ
 きが強い地域と見るのが最も自然である。

 

高島忠平氏の見解
* それに対し、方格規矩鏡・内行花文鏡・盤龍
 鏡など後漢の官営工房系の鏡が、多く分布する
 北部九州は、中国北部、魏の国との結びつきが
 強い地域といえる。
  もうひとつの鏡、方角T字鏡(簡化規矩鏡)
 の北部九州を中心とした分布状況が、これに加
 わる。
* 中国では、後漢・三国・晋代にかけて、こう
 した銅鏡の南北の地域差が明瞭になってくるこ
 とが指摘されている。
  銅鏡において、中国における「南」と「北」
 とが、日本列島の「東」と「西」とに対応して
 いるのである。
(ここまでが高島氏の見解)
 三世紀の日本列島の西に後漢式鏡の分布する
があり、そこが親魏倭王の領土であるなら、東
三角縁神獣鏡の分布する東鯷国があり、そこが
親呉倭王の領土となる。
(福永の考え)

 銅鏡において、中国における「南」(=)と「北」(=)とが、日本列島の「東」(=東鯷国)と「西」(=倭国)とに対応している。
 高島先生は、文献史学者ではないので、さすがに東鯷国とは出していないが、三角縁神獣鏡の分布領域をちゃんと近畿と出されている。
 神功皇后の時に東鯷国から出兵して豊国を征伐していった。

 

● 呉の年号である「赤烏」銘の三角縁神獣鏡

倭国と東鯷国
一九六 曹操、献帝を戴き、屯田制を施く(この
 後、東鯷人、魏都来貢)
二〇五 遼東の公孫氏、朝鮮に帯方郡をおく
二〇八 赤壁の戦、中国三分の形勢となる
二二〇 魏、九品中正をおく、曹丕(文帝)献帝
 を廃し、魏の帝位につき、漢滅ぶ
二二一 蜀の劉備、帝位につき、蜀漢と号す
二二九 呉王孫権、呉の帝位につき、建業に都す
二三〇 孫権、将軍衛温・諸葛直を夷州・亶州
 (東鯷国)に遣わす
二三八 魏、遼東の公孫氏を亡ぼす(呉の赤烏元
 年銘神獣鏡が山梨県に出土)
二三九 倭国(邪馬臺国)の卑弥呼、魏に朝貢
二四〇 魏、倭国の卑弥呼に「親魏倭王」印を仮
 授す(東鯷国と断交か)
二四四 呉の赤烏七年銘神獣鏡が兵庫県に出土
二六三 魏、蜀漢を亡ぼす
二六五 司馬炎(武帝)晋をおこす、魏亡ぶ

 『三国志』の年表に鏡の情報を追加した。

 魏が、遼東の公孫氏を亡ぼした西暦238年というのは、邪馬臺国(=倭国)の女王卑弥呼が帯方郡に遣いを出した年である。
 魏のライバルである呉は、赤烏という年号に使うようになった年である。その赤烏元年という銘が入った三角縁神獣鏡が、山梨県から出土している。
 さらに西暦244年、呉の赤烏七年の銘が入った三角縁神獣鏡が、兵庫県から出土している。

 

倭国と東鯷国
二六六 倭国(邪馬臺国)の臺与、晋に朝貢
二八〇 晋、呉を亡ぼして中国を統一す
二九七 史家陳寿没(『三国志』「魏志倭人伝」
 を編む)
赤烏元年鏡
鳥居原狐塚古墳
 山梨県市川三郷町大塚
写真「赤烏元年鏡」

 高島先生も早くから三角縁神獣鏡は、呉系統の鏡であると言っている。