「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-

※ 卑弥呼の鏡と神功の鏡  -倭国の魏鏡と東鯷国の呉鏡-
 (令和二年八月二十日(木)、第16回 古代史講座 第2部、主催 田川広域観光協会)より

■ 弥生時代(実年代が変更)の前期に、倭国は始まった

● 弥生時代の実年代

弥生時代の実年代
「国立歴史博物館によると弥生時代の実年代」

 国立歴史博物館によると弥生時代の年代は、従来説より500年くらい古くなると少し前より出している。

 夜臼式土器(ゆうすしきどき)の編年も変わっている。この実年代上に『日本書紀』の紀年で、神武天皇が橿原宮で即位したのが、紀元前660年とされている。

 『田川郡誌』に載っているが、旧田川郡が景行天皇の頃には、今の田川ではなく、鷹羽と書く国だったと田川の語源として書かれている。
 景行天皇が田川に来られた時に盃に鷹の羽が落ちてきたので、鷹羽の国だと言ったという伝承が残されている。

 『日本書紀』崇神天皇紀に「倭成す大物主」という変わった寿ぎ/言祝ぎ(ことほぎ)の歌、酒祝ひ/酒寿ひ(さかほがい)の歌である。
 倭国をお作りになった大物主という存在が、『古事記』から読み取れた。この神が、我々が知るところの倭国を最初に作った神のようである。

 倭国作りをなさったのは、大物主だというのが、『日本書紀』の神武天皇即位の年、紀元前660年である。
 中国では、周の時代から春秋時代に入る頃である。

 

● 日子遅の神が祭られているから、日子山である

倭成す大物主-日子山の起源
 三柱の神の続きにこうある。
 次に国稚く浮ける脂の如くして、海月なす
漂えるとき、葦牙の如く萌え騰る物によりて、
成りし神の名は宇摩志阿斯訶備比古遲神
、次
に天之常立神。この二柱の神もまた獨神と成
りまして、身を隱したまひき。
 上の件の五柱の神は、別天つ神
 葦牙とはおよそ水稲のことである。すると、
宇摩志阿斯訶備比古遲神とは我が国に稲をもた
らした神であり、弥生時代の始まりの神である。
 この「比古遲神」が古事記の「八千矛の神」
の段に別の表記で現れる
 又其の神の嫡后須勢理毘売命、甚く嫉妬為
たまひき。故、其の日子遅の神和備弖、出雲
より倭国に上り坐さむ
 古事記の「大国主」の段にはこうある。

 「倭成す大物主」というのは、日子山の起源であった。

 『古事記』の冒頭に出てくる「比古遲神」が、「八千矛の神」の段のところの、「日子遅の神」と同じ神である。
 また、八千矛の神というのは、『古事記』の中では大国主でもあるが、よく精査すると大国主は、大物主であった。崇神紀にある倭成す大物主であった

 日子遅の神(=大物主)が祭られているから日子山である。今までは、天照大神の子の天忍穂耳命、つまり日神の子が祭られているから日子山だという伝承が彦山流記などに残っているが、私は、大物主(日子遅の神)が祭られているから日子山に変えた。

 

● 八千矛の神が居た場所、北部九州が倭国である

倭国の始まり-倭成す大物主
 大物主は別名「八千矛の神」でもある。
この神が引き連れてきた部族こそおそらく
物部氏二十五部族であろう。
 銅矛の出土状況がそれを裏付ける。神代
の倭国も断じて近畿にはなかった。
「銅剣・銅鉾・銅戈文化圏と銅鐸文化圏の地図」

 大物主は、別名が八千矛の神として『古事記』に書かれているから、大物主が引き連れてきた部族こそが、物部氏二十五部族であろう。

 実際の銅矛の出土状況を見れば、大物主(=八千矛の神)がいた場所は、明らかに北部九州にならざるを得ない。だから、神代の倭国も断じて近畿地方にはなかったのである。

 冒頭で話した三国時代の日本列島に存在した倭国青色東鯷国赤色で表記した色の意味が見えてきたでしょうか。

 

● 英彦山の隣、鷹巣山に大物主が祭られている

英彦山豊前坊高住(鷹巣)神社
豊日別国魂神=大穴牟遅神
英彦山豊前坊高住神社(添田町)

 実際に大物主神が、英彦山の隣、鷹巣山の高住神社に祭られている。高住神社の元は、鷹巣神社であったと思われる。

 祭神は、豊日別国魂神といい、大物主/大国主の別名が、大穴牟遅神であり、冗談抜きにこの神社は、後ろにある岩の大きな洞窟の中に本殿がある。

 ここにかつて紀元前660年に本当に大穴牟遅神(=大物主)が住んでいたのであろう。この高住神社のご神紋は「抱き鷹の羽に二つ引き紋」である。
 鷹羽の紋であり、鷹羽の国である。